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広島地区旧海軍史跡巡り [歴史探訪]
春の連休を利用して、広島呉地区の海軍の史跡巡りを計画しました。優先順位として、①旧海軍兵学校の見学、②呉鎮守府庁舎の見学、③呉鎮守府長官公邸の見学、④大和ミュージアムの見学、歴史探訪と関係ないがついでに護衛艦の見学と鉄のクジラ館、おまけとして平清盛の伝説地の見学としました。
スケジュール的には
4月29日(日) 10:00から護衛艦の見学 → 大和ミュージアム → 呉鎮守府庁舎 → 歴史の見える丘 → 入船山記念館 → 鉄のクジラ館
4月30日(月) 旧海軍兵学校の見学 → 原爆ドーム → 終了
を計画しましたが、30日はあいにくの雨で一番の目標であった旧海軍兵学校の見学は中止となりました。

大君の王泊地区の漢字が間違っています。画像を修正するのがめんどくさいのでこのままでご容赦ください。

【呉音戸地区】
呉市音戸地区にある「平清盛公日招像」です。昔何度か来たことがありますが、NHKの大河ドラマの関係で非常にきれいに整備されていました。
(平清盛公日招像の碑文より) 対宋貿易と厳島参詣のための海上の捷路(近道)音戸の瀬戸開削工事を指揮した平相国清盛公が、永萬元年(一一六五年)七月十日 沈む太陽を中天に招きかえして、その日のうちに、この難作業を完成させたという古来の伝説にもとづき、瀬戸開削八百年を記念して、当時四十八才の清盛公の英姿を ゆかりの地日迎山高烏台に建立してその遺徳を偲び、あわせて海上交通の平安を永世に祈願する所以である。 銅像原型は林 健の作である。 昭和四十二年七月吉日 社団法人 呉観光協会々長 増岡博之

この写真は6年前に撮ったものです。通常はこんなに汚いものでしたが、NHKの力は偉大です。
全国的に平清盛といえば東大寺の大仏を焼いたり、武士でありながら藤原摂関政治のまねをして娘を天皇に嫁がせたり非常に悪者のイメージがあります。しかし、この地区では偉大な大政治家(最高統治者)として丁重に敬まられています。原因としては、この地区に偉大な功績を残している事や、情け容赦ない源氏の一方的な弾圧により滅ぼされた敗者への同情、平家は瀬戸内海が本拠地であったなどでしょう。

展望台から南の四国方面を見たところです。よく見ると遠くに四国が見えます。とても風光明媚なところです。

平清盛公日招像のすぐそばに、日招き岩がありました。この岩の上に平清盛が立って西に沈みかけた太陽を扇を使って元に戻したそうです。

太陽さえ自分の意のままに操れるほど清盛の権力が絶大であった、ということを象徴した伝説にあわせてちょうどいい具合にこの石があったのか?この石の存在にあわせて日招き伝説ができたのか?

この岩に立って日の沈む西の方角を望むとちょうど音戸ノ瀬戸が見えます。

明治32(1899)年、日清戦争のため、陸軍によって砲台、火薬庫、 兵舎などがこの地に築かれました。 明治中期の軍港を護る要塞砲の形式としては珍しいもので、後に海軍所管となり、 太平洋戦争時には専ら防空砲台として使用されていました。(現地説明書きより)

日招きの像や日招岩、砲台跡の位置関係の説明がありました。
神武東征、八咫烏といえば紀伊国(和歌山県)を思い浮かべますが、この地区にも伝承があるようです。機会があれば調べてみたいものです。
高烏台のいわれ 瀬戸内海の景観を望むこの台地を「高烏台」と名付けたのは旧海軍が要塞砲台を管理し、これを「高烏台」と呼んでいたことによるものです。 高烏山はこの台地の北方休山連峰の中腹にあり神武天皇御東征の砌、八呎烏が御先導の道をたずんね、翼を休めたという伝説のあるところです。 呉湾に浮かんでいた烏小島も空海軍の拡張工事のため惜しくも削り取られてその島影を失ったが、厳島神社に仕える親子烏がこの島で鳴き別れたという言い伝えなどもあり、烏に因む地名が多いです。 昭和三十六年大蔵省より旧海軍用地の貸与を受け、この一帯を都市公園として整備しました。

【大君王泊地区】
時代的に源氏が勢力を広げつつあるなか、この地区における平家への対応は好意的であったと思われます。そのためか、この地にしばらくとどまり政務を執り行っていたようです。その後、源氏の追っ手が迫ったことから壇ノ浦に向けて旅立っていったのでしょう。壇ノ浦から軍勢を呼び寄せて呉地区で源氏を迎え撃った場合歴史が変わっていたかもしれません。
平家口碑 安徳天皇と三種神器を奉じた平宗盛の率いる軍勢は、源義経の急迫を逃れ軍船を連ねて長門国壇浦に向かう途次、当地(多海ー大美)に上陸した。 当地の豪族秀栄は快く一行を迎えた。 宗盛は大いに喜び、地名を「大君」と改めるように命じた。それ以来全国的にも珍しい地名が生まれた。 そのほかにも王泊、匿宮山、御立山など、往古を偲ぶ地名が現存している。 昭和56年4月 大柿町 大柿町観光協会(現地案内板より)

【呉港湾地区】
29日(日)は海上自衛隊護衛艦「いなずま DD105」の見学からスタートです。
結構人気があるようで日本中から見学者が集まってきていました。
<海上自衛隊 HP> http://www.mod.go.jp/msdf/formal/gallery/ships/dd/murasame/105.html いなづま(ローマ字:JS Inazuma, DD-105)は、海上自衛隊の護衛艦。むらさめ型護衛艦の5番艦。旧海軍の雷型駆逐艦「電」、吹雪型駆逐艦「電 (吹雪型駆逐艦)」、いかづち型護衛艦「DE-203 いなづま」に続き日本の艦艇としては4代目。 「いなづま」は中期防衛力整備計画に基づく平成7年度計画4,400トン型護衛艦、2234号艦として三菱重工業長崎造船所で1997年5月8日に起工し、1998年9月9日に進水、2000年3月15日に就役した後に第4護衛隊群第4護衛隊に配属された。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%84%E3%81%AA%E3%81%A5%E3%81%BE_(%E8%AD%B7%E8%A1%9B%E8%89%A6%E3%83%BB2%E4%BB%A3)

岸壁を歩いて行くと目指す艦船がどんどん近づいてきます。

身近に見上げる艦船はとても勇壮で、頼もしく感じられました。
http://www.vspg.net/jmsdf/dd105.html

入り口には幹部の方々に出迎えていただきました。

現役艦船の見学は初めてで、実際主砲を身近に見ましたが「こんなに小さいの?こんなんで大丈夫」といった感じでした。戦艦といえば戦艦大和、主砲は46センチ・・現代戦ではミサイルや飛行機が主体で実際はドンパチすることはないのでしょう。

血がこぼれたようなペイントがありました。センスとしてはイマイチかな?

岸壁の真向かいに「練習艦かしま」が係留されていました。こちらの艦の方が大きくて堂々とした艦船でした。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8B%E3%81%97%E3%81%BE_(%E7%B7%B4%E7%BF%92%E8%89%A6)

たぶん使われていないのでしょう。潜水艦がプカプカうかんでいました。

この建物は呉中央桟橋にある「大和ミュージアム」です。このミュージアムの見学は今回で二度目です。

「大和ミュージアム」の隣には海上自衛隊の活動をPRするための「鉄のクジラ館」があります。

早速「大和ミュージアム」の中に入ります。入ったらすぐに迫力のある「戦艦大和」が出迎えてくれます。何度見ても迫力ある模型です。
http://www.yamato-museum.com/

※「海龍」後期量産型 ●全没排水量:19.268t ●主要寸法:全長17.28m×直径1.3m ●水上速力:7.4kt 水中速力:9.7kt ●主要装備:45センチ魚雷×2 頭部弾薬600キログラム ●乗員:2名
http://vspgnet.web.fc2.com/yama-kairyu.html

子供の頃からのゼロ戦ファンで、小さい頃よくノートにゼロ戦の絵を描いていました。(年代がわかってしまう・・・)アメリカの飛行機を次から次へと撃墜するゼロ戦の戦歴に憧れたもので、大きくなったら飛行機に関係する仕事に就く夢を抱いていました。

斜め後方からの戦艦大和の勇姿

この角度から見るゼロ戦も美しい姿をしています。

斜め前方からの戦艦大和の勇姿

どの角度から見ても美しい形をしています。

海軍カレーです。といっても、これのどこが海軍カレーなのかよくわかりません。自分のイメージとしては、ジャガイモとにんじんがごろごろしているといったイメージを強く持っていました。このカレーは自分にとって「普通のおいしいカレー」です。写真の一部に「大和ミュージアム」のチケットがなければアレ~この写真の意味は何??? てかんじですね。
海軍割烹術参考書によるオリジナルレシピは以下の通り. 【材料】:牛肉(または鶏肉)、人参、玉葱、馬鈴薯、塩、カレー粉、小麦粉、ヘット(牛脂)、米、スープ、チャツネなどの漬物 【作り方】 1.まず米を研いでおく。 2.肉、玉葱、人参、馬鈴薯を賽の目に切る。 3.ヘットを敷いたフライパンで小麦粉を煎り、きつね色になったらカレー粉を加え、スープで薄めのとろろ汁の濃さに延ばす。 4.2の肉野菜を炒め、3に入れて火に掛けて弱火で煮込む。馬鈴薯は玉葱・人参がほぼ煮えてから入れる。 5.先ほどの米をスープで炊く。炊き上がったら皿に盛る。 6.4で煮込んだものを塩で調味し、皿に盛ったごはんに掛けて供する 7.供する際「チャツネ」などの漬物を添える。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E3%82%AB%E3%83%AC%E3%83%BC

次の見学場所は、海上自衛隊呉地方総監部庁舎旧呉鎮守府(ちんじゅふ)庁舎です。
旧呉鎮守府庁舎。1907(明治40)年に竣工した地下1階、地上2階建て、延べ1,990m2 のレンガ石造の建築で、レンガと御影石(みかげいし)との調和がとれた、呉市に現存する代表的なレンガ構造物です。外壁はイギリス積みの積み方で、2階には柱頭に桜を彫刻した石柱が両側にあるなど、凝ったデザインと入念な仕上げが建物の美しさと重厚さを表現しています。毎週日曜日には一般公開されています http://www.kurenavi.jp/html/m000027.html

日本中の古い建物が壊されつつあるなかで明治時代の建築物がきれいに残されています。特にこの地区はアメリカの空襲がひどく大変であった場所です。今現在こんなきれいな建物を見学できるということは感激ものです。

若いエリート幹部の方が案内してくれましたが、台本を棒読みするたどたどしい説明状態でした。きっとこの人は、敵をやっつける能力はすばらしく高いものを持っているが、一般のおじさんおばさんを接客する能力は少し劣るのでしょう。がんばれ若者!

正面玄関の内部です。

鎮守府庁舎の裏側(こちら側は海側で海軍では正面となりますよって、こちらが本来の正面)から見た庁舎です。

戦艦大和の記念塔
歴史の見える丘 軍港都市から平和産業都市としての道を歩んだ、明治以降の呉の歴史が一望できる場所として、1982(昭和57)年に完成しました。この丘からは、「旧呉鎮守府庁舎(現:海上自衛隊呉地方総監部庁舎)」や呉で造られた戦艦「大和」を建造したドックの上屋を眺めることができます。現在、ドックは埋め立てられ、上屋(骨組みは当時のまま)だけが残っています。また、大和の主砲徹甲弾や造船船渠記念碑、正岡子規の句碑などもあります。 http://www.kurenavi.jp/html/m000050.html

正岡子規の碑がありました。

旧呉海軍工廠(こうしょう)塔時計 1921(大正10)年6月、旧呉海軍工廠造機部屋上に設置され、終戦まで、呉工廠とともにその歴史の時を刻んできました。高さ約10mで、本体は一辺2.4mの立方体、四方には1.5mの文字板があり、電動親子式衝動時計としては、国産で最も古いもののひとつです。また、1日4回流れるメロディーは、毎年小中学生が作曲したものです。1981(昭和56)年呉市有形文化財に指定されています。
入船山記念館 旧呉鎮守府司令長官官舎(平成10年国重要文化財指定)を中心に、郷土館、歴史民俗資料館(近世文書館)等があり、呉の歴史をたどるにはまたとない施設です。 美術館とともに入船山公園の文化ゾーンを形成しています。 http://www.kurenavi.jp/html/m000001.html

旧呉鎮守府司令長官官舎の正面

応接間です

食堂です

東郷平八郎元帥が若い頃(大佐?)住んでいた住宅です。
我が国の神様のような人が住んでいた家ということは、とても貴重な文化財なので立ち入り禁止!と思われましたが、なんと「ご自由に中で休憩してください。」ということでした。恐れ多くてとても中に入って休憩しようという気にはなれませんでした。
東郷平八郎が、1890(明治23)年からの約1年7か月間、 呉在任中に住んでいた家の離れ座敷です。この建物は平屋建瓦葺きの木造の家で、宮原5丁目の正円寺の山手より、現在はこの場所へ移築・復元されました。1997(平成9)年5月に国の登録有形文化財に登録されています。

今度は鉄のクジラ館の見学です。
この建物に入るのは今回が初めてです。クジラの見学に2~300円かなと思いましたが、ただでした。
日本で初めて、実物の巨大潜水艦を陸上展示する博物館「海上自衛隊呉史料館(愛称:てつのくじら館)」は、「潜水艦の発展と現況」や「掃海艇の戦績と活躍」などに関する歴史的な資料を通して、海上自衛隊の歴史や、呉市と海上自衛隊の歴史的な関わりについて紹介する史料館です。 陸揚げされた実物の巨大潜水艦に乗艦することもでき、艦内には、艦長室や士官室などの艦内生活の一部が再現され、潜水中の環境や生活を疑似体験できるほか、潜水艦の構造を実際に「見て」、「触って」、「体感する」貴重な体験ができる史料館です。 http://www.kurenavi.jp/html/m000220.html
http://vspgnet.web.fc2.com/kure-akishio.html

内部の通路はとても狭いものでした。図体は巨大ですが、内部はスモールです。

結構機密と思える機器がたくさんあります。北朝鮮の工作員が見学に来たらどうするのでしょうか?結構心配です。




外に出た所です。艦内部にあった潜望鏡はダミーではなく、棒の先にある口から実際見た風景です。と関係者から説明を受けました。実際、艦内の潜望鏡で見た風景が作りものと思う人はいるのかな?

中は窮屈ですが、外から見る胴体は巨大です。

のどが渇いたので、名物という塩ラムネを200円で買って飲みました。個人的にはこの味も悪くはありませんが、普通のラムネの方が好きです。(しかし、思い出にはなったかな)

男たちのヤマトを見ましたが、この場所からヤマトに乗船する映像が出ました。戦争映画のロケに最適の場所です。
アレイからすこじま 国内で唯一、潜水艦を間近で見ることができる公園で、海上自衛隊の潜水艦と護衛艦がイカリを下ろしています。ここはその昔、呉が海軍の本拠地だったことを偲ばせるエリアです。周りは旧海軍工廠のレンガ建造物が並ぶレトロな雰囲気で、戦艦・大和も近くのドックで極秘に建造されました。時代は変わり、今はだれでも自由に散策を楽しめる公園になっています。 「アレイからすこじま」の名前の由来は、呉浦にあった周囲30~40mの「からすこじま」(大正時代に魚雷発射訓練場として埋立)という小島の名称と、英語の小道(アレイ)からきたもの。緑とレンガ色に包まれたアレイ(小道)をゆっくり散策してみませんか? 旧魚雷揚げ下ろしクレーンもあります。
http://www.kurenavi.jp/html/m000008.html


潜水艦のエンジンがかかっていて、黄色い排ガスがそこら中に立ちこめていました。今からどこかに出航か?試験運転か?特別な人への見学用か?

4月30日は今回の旅行の第一目的地である「江田島の旧海軍兵学校」を見学する予定でした。ところがあいにくの雨です。HPを見ると雨が降ると見学を中止します。との記述があったため、泣く泣く見学はあきらめて、次の目的地の広島平和記念公園の見学です。

南から見た世界遺産の原爆ドーム

西から見た世界遺産の原爆ドーム

北から見た世界遺産の原爆ドーム

広島市内はどこへ行っても「NHK大河ドラマ 平清盛」状態です。

昼ご飯は名物のお好み焼きです。駅前にある福屋の食堂街の五エ門ででお好み焼きを堪能します。この店はいつも大行列で大変な賑わいです。

ビールを飲みながらのお好み焼きは最高です。この店は鉄板にあるお好み焼きを金属の小さいへらで切って食べることができます。なれない客は店の人に切ってもらいますが、自分は結構なれているので自分で切って食べます。
いつもは基本の「そば肉玉」ですが、今日は少し趣向を変えて「パワフルそば(ホルモン、ニンニク、しそ、肉玉」1050円を食べました。素直な感想として、最初の一口はなんておいしいのだろう!状態ですが、しばらくするとくどくなってきます。あまり余計なことをしないのが無難です。
個人的におすすめは、「そば肉玉にネギとイカ天のトッピング」です。
http://goemon.in/index.html
スケジュール的には
4月29日(日) 10:00から護衛艦の見学 → 大和ミュージアム → 呉鎮守府庁舎 → 歴史の見える丘 → 入船山記念館 → 鉄のクジラ館
4月30日(月) 旧海軍兵学校の見学 → 原爆ドーム → 終了
を計画しましたが、30日はあいにくの雨で一番の目標であった旧海軍兵学校の見学は中止となりました。

大君の王泊地区の漢字が間違っています。画像を修正するのがめんどくさいのでこのままでご容赦ください。

【呉音戸地区】
呉市音戸地区にある「平清盛公日招像」です。昔何度か来たことがありますが、NHKの大河ドラマの関係で非常にきれいに整備されていました。
(平清盛公日招像の碑文より) 対宋貿易と厳島参詣のための海上の捷路(近道)音戸の瀬戸開削工事を指揮した平相国清盛公が、永萬元年(一一六五年)七月十日 沈む太陽を中天に招きかえして、その日のうちに、この難作業を完成させたという古来の伝説にもとづき、瀬戸開削八百年を記念して、当時四十八才の清盛公の英姿を ゆかりの地日迎山高烏台に建立してその遺徳を偲び、あわせて海上交通の平安を永世に祈願する所以である。 銅像原型は林 健の作である。 昭和四十二年七月吉日 社団法人 呉観光協会々長 増岡博之
この写真は6年前に撮ったものです。通常はこんなに汚いものでしたが、NHKの力は偉大です。
全国的に平清盛といえば東大寺の大仏を焼いたり、武士でありながら藤原摂関政治のまねをして娘を天皇に嫁がせたり非常に悪者のイメージがあります。しかし、この地区では偉大な大政治家(最高統治者)として丁重に敬まられています。原因としては、この地区に偉大な功績を残している事や、情け容赦ない源氏の一方的な弾圧により滅ぼされた敗者への同情、平家は瀬戸内海が本拠地であったなどでしょう。

展望台から南の四国方面を見たところです。よく見ると遠くに四国が見えます。とても風光明媚なところです。

平清盛公日招像のすぐそばに、日招き岩がありました。この岩の上に平清盛が立って西に沈みかけた太陽を扇を使って元に戻したそうです。

太陽さえ自分の意のままに操れるほど清盛の権力が絶大であった、ということを象徴した伝説にあわせてちょうどいい具合にこの石があったのか?この石の存在にあわせて日招き伝説ができたのか?

この岩に立って日の沈む西の方角を望むとちょうど音戸ノ瀬戸が見えます。

明治32(1899)年、日清戦争のため、陸軍によって砲台、火薬庫、 兵舎などがこの地に築かれました。 明治中期の軍港を護る要塞砲の形式としては珍しいもので、後に海軍所管となり、 太平洋戦争時には専ら防空砲台として使用されていました。(現地説明書きより)
日招きの像や日招岩、砲台跡の位置関係の説明がありました。
神武東征、八咫烏といえば紀伊国(和歌山県)を思い浮かべますが、この地区にも伝承があるようです。機会があれば調べてみたいものです。
高烏台のいわれ 瀬戸内海の景観を望むこの台地を「高烏台」と名付けたのは旧海軍が要塞砲台を管理し、これを「高烏台」と呼んでいたことによるものです。 高烏山はこの台地の北方休山連峰の中腹にあり神武天皇御東征の砌、八呎烏が御先導の道をたずんね、翼を休めたという伝説のあるところです。 呉湾に浮かんでいた烏小島も空海軍の拡張工事のため惜しくも削り取られてその島影を失ったが、厳島神社に仕える親子烏がこの島で鳴き別れたという言い伝えなどもあり、烏に因む地名が多いです。 昭和三十六年大蔵省より旧海軍用地の貸与を受け、この一帯を都市公園として整備しました。

【大君王泊地区】
時代的に源氏が勢力を広げつつあるなか、この地区における平家への対応は好意的であったと思われます。そのためか、この地にしばらくとどまり政務を執り行っていたようです。その後、源氏の追っ手が迫ったことから壇ノ浦に向けて旅立っていったのでしょう。壇ノ浦から軍勢を呼び寄せて呉地区で源氏を迎え撃った場合歴史が変わっていたかもしれません。
平家口碑 安徳天皇と三種神器を奉じた平宗盛の率いる軍勢は、源義経の急迫を逃れ軍船を連ねて長門国壇浦に向かう途次、当地(多海ー大美)に上陸した。 当地の豪族秀栄は快く一行を迎えた。 宗盛は大いに喜び、地名を「大君」と改めるように命じた。それ以来全国的にも珍しい地名が生まれた。 そのほかにも王泊、匿宮山、御立山など、往古を偲ぶ地名が現存している。 昭和56年4月 大柿町 大柿町観光協会(現地案内板より)

【呉港湾地区】
29日(日)は海上自衛隊護衛艦「いなずま DD105」の見学からスタートです。
結構人気があるようで日本中から見学者が集まってきていました。
<海上自衛隊 HP> http://www.mod.go.jp/msdf/formal/gallery/ships/dd/murasame/105.html いなづま(ローマ字:JS Inazuma, DD-105)は、海上自衛隊の護衛艦。むらさめ型護衛艦の5番艦。旧海軍の雷型駆逐艦「電」、吹雪型駆逐艦「電 (吹雪型駆逐艦)」、いかづち型護衛艦「DE-203 いなづま」に続き日本の艦艇としては4代目。 「いなづま」は中期防衛力整備計画に基づく平成7年度計画4,400トン型護衛艦、2234号艦として三菱重工業長崎造船所で1997年5月8日に起工し、1998年9月9日に進水、2000年3月15日に就役した後に第4護衛隊群第4護衛隊に配属された。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%84%E3%81%AA%E3%81%A5%E3%81%BE_(%E8%AD%B7%E8%A1%9B%E8%89%A6%E3%83%BB2%E4%BB%A3)

岸壁を歩いて行くと目指す艦船がどんどん近づいてきます。

身近に見上げる艦船はとても勇壮で、頼もしく感じられました。
http://www.vspg.net/jmsdf/dd105.html

入り口には幹部の方々に出迎えていただきました。

現役艦船の見学は初めてで、実際主砲を身近に見ましたが「こんなに小さいの?こんなんで大丈夫」といった感じでした。戦艦といえば戦艦大和、主砲は46センチ・・現代戦ではミサイルや飛行機が主体で実際はドンパチすることはないのでしょう。

血がこぼれたようなペイントがありました。センスとしてはイマイチかな?

岸壁の真向かいに「練習艦かしま」が係留されていました。こちらの艦の方が大きくて堂々とした艦船でした。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8B%E3%81%97%E3%81%BE_(%E7%B7%B4%E7%BF%92%E8%89%A6)

たぶん使われていないのでしょう。潜水艦がプカプカうかんでいました。

この建物は呉中央桟橋にある「大和ミュージアム」です。このミュージアムの見学は今回で二度目です。

「大和ミュージアム」の隣には海上自衛隊の活動をPRするための「鉄のクジラ館」があります。

早速「大和ミュージアム」の中に入ります。入ったらすぐに迫力のある「戦艦大和」が出迎えてくれます。何度見ても迫力ある模型です。
http://www.yamato-museum.com/

※「海龍」後期量産型 ●全没排水量:19.268t ●主要寸法:全長17.28m×直径1.3m ●水上速力:7.4kt 水中速力:9.7kt ●主要装備:45センチ魚雷×2 頭部弾薬600キログラム ●乗員:2名
http://vspgnet.web.fc2.com/yama-kairyu.html

子供の頃からのゼロ戦ファンで、小さい頃よくノートにゼロ戦の絵を描いていました。(年代がわかってしまう・・・)アメリカの飛行機を次から次へと撃墜するゼロ戦の戦歴に憧れたもので、大きくなったら飛行機に関係する仕事に就く夢を抱いていました。

斜め後方からの戦艦大和の勇姿

この角度から見るゼロ戦も美しい姿をしています。

斜め前方からの戦艦大和の勇姿

どの角度から見ても美しい形をしています。

海軍カレーです。といっても、これのどこが海軍カレーなのかよくわかりません。自分のイメージとしては、ジャガイモとにんじんがごろごろしているといったイメージを強く持っていました。このカレーは自分にとって「普通のおいしいカレー」です。写真の一部に「大和ミュージアム」のチケットがなければアレ~この写真の意味は何??? てかんじですね。
海軍割烹術参考書によるオリジナルレシピは以下の通り. 【材料】:牛肉(または鶏肉)、人参、玉葱、馬鈴薯、塩、カレー粉、小麦粉、ヘット(牛脂)、米、スープ、チャツネなどの漬物 【作り方】 1.まず米を研いでおく。 2.肉、玉葱、人参、馬鈴薯を賽の目に切る。 3.ヘットを敷いたフライパンで小麦粉を煎り、きつね色になったらカレー粉を加え、スープで薄めのとろろ汁の濃さに延ばす。 4.2の肉野菜を炒め、3に入れて火に掛けて弱火で煮込む。馬鈴薯は玉葱・人参がほぼ煮えてから入れる。 5.先ほどの米をスープで炊く。炊き上がったら皿に盛る。 6.4で煮込んだものを塩で調味し、皿に盛ったごはんに掛けて供する 7.供する際「チャツネ」などの漬物を添える。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E3%82%AB%E3%83%AC%E3%83%BC

次の見学場所は、海上自衛隊呉地方総監部庁舎旧呉鎮守府(ちんじゅふ)庁舎です。
旧呉鎮守府庁舎。1907(明治40)年に竣工した地下1階、地上2階建て、延べ1,990m2 のレンガ石造の建築で、レンガと御影石(みかげいし)との調和がとれた、呉市に現存する代表的なレンガ構造物です。外壁はイギリス積みの積み方で、2階には柱頭に桜を彫刻した石柱が両側にあるなど、凝ったデザインと入念な仕上げが建物の美しさと重厚さを表現しています。毎週日曜日には一般公開されています http://www.kurenavi.jp/html/m000027.html

日本中の古い建物が壊されつつあるなかで明治時代の建築物がきれいに残されています。特にこの地区はアメリカの空襲がひどく大変であった場所です。今現在こんなきれいな建物を見学できるということは感激ものです。

若いエリート幹部の方が案内してくれましたが、台本を棒読みするたどたどしい説明状態でした。きっとこの人は、敵をやっつける能力はすばらしく高いものを持っているが、一般のおじさんおばさんを接客する能力は少し劣るのでしょう。がんばれ若者!

正面玄関の内部です。

鎮守府庁舎の裏側(こちら側は海側で海軍では正面となりますよって、こちらが本来の正面)から見た庁舎です。

戦艦大和の記念塔
歴史の見える丘 軍港都市から平和産業都市としての道を歩んだ、明治以降の呉の歴史が一望できる場所として、1982(昭和57)年に完成しました。この丘からは、「旧呉鎮守府庁舎(現:海上自衛隊呉地方総監部庁舎)」や呉で造られた戦艦「大和」を建造したドックの上屋を眺めることができます。現在、ドックは埋め立てられ、上屋(骨組みは当時のまま)だけが残っています。また、大和の主砲徹甲弾や造船船渠記念碑、正岡子規の句碑などもあります。 http://www.kurenavi.jp/html/m000050.html

正岡子規の碑がありました。

旧呉海軍工廠(こうしょう)塔時計 1921(大正10)年6月、旧呉海軍工廠造機部屋上に設置され、終戦まで、呉工廠とともにその歴史の時を刻んできました。高さ約10mで、本体は一辺2.4mの立方体、四方には1.5mの文字板があり、電動親子式衝動時計としては、国産で最も古いもののひとつです。また、1日4回流れるメロディーは、毎年小中学生が作曲したものです。1981(昭和56)年呉市有形文化財に指定されています。
入船山記念館 旧呉鎮守府司令長官官舎(平成10年国重要文化財指定)を中心に、郷土館、歴史民俗資料館(近世文書館)等があり、呉の歴史をたどるにはまたとない施設です。 美術館とともに入船山公園の文化ゾーンを形成しています。 http://www.kurenavi.jp/html/m000001.html

旧呉鎮守府司令長官官舎の正面

応接間です

食堂です

東郷平八郎元帥が若い頃(大佐?)住んでいた住宅です。
我が国の神様のような人が住んでいた家ということは、とても貴重な文化財なので立ち入り禁止!と思われましたが、なんと「ご自由に中で休憩してください。」ということでした。恐れ多くてとても中に入って休憩しようという気にはなれませんでした。
東郷平八郎が、1890(明治23)年からの約1年7か月間、 呉在任中に住んでいた家の離れ座敷です。この建物は平屋建瓦葺きの木造の家で、宮原5丁目の正円寺の山手より、現在はこの場所へ移築・復元されました。1997(平成9)年5月に国の登録有形文化財に登録されています。

今度は鉄のクジラ館の見学です。
この建物に入るのは今回が初めてです。クジラの見学に2~300円かなと思いましたが、ただでした。
日本で初めて、実物の巨大潜水艦を陸上展示する博物館「海上自衛隊呉史料館(愛称:てつのくじら館)」は、「潜水艦の発展と現況」や「掃海艇の戦績と活躍」などに関する歴史的な資料を通して、海上自衛隊の歴史や、呉市と海上自衛隊の歴史的な関わりについて紹介する史料館です。 陸揚げされた実物の巨大潜水艦に乗艦することもでき、艦内には、艦長室や士官室などの艦内生活の一部が再現され、潜水中の環境や生活を疑似体験できるほか、潜水艦の構造を実際に「見て」、「触って」、「体感する」貴重な体験ができる史料館です。 http://www.kurenavi.jp/html/m000220.html
http://vspgnet.web.fc2.com/kure-akishio.html

内部の通路はとても狭いものでした。図体は巨大ですが、内部はスモールです。

結構機密と思える機器がたくさんあります。北朝鮮の工作員が見学に来たらどうするのでしょうか?結構心配です。




外に出た所です。艦内部にあった潜望鏡はダミーではなく、棒の先にある口から実際見た風景です。と関係者から説明を受けました。実際、艦内の潜望鏡で見た風景が作りものと思う人はいるのかな?

中は窮屈ですが、外から見る胴体は巨大です。

のどが渇いたので、名物という塩ラムネを200円で買って飲みました。個人的にはこの味も悪くはありませんが、普通のラムネの方が好きです。(しかし、思い出にはなったかな)

男たちのヤマトを見ましたが、この場所からヤマトに乗船する映像が出ました。戦争映画のロケに最適の場所です。
アレイからすこじま 国内で唯一、潜水艦を間近で見ることができる公園で、海上自衛隊の潜水艦と護衛艦がイカリを下ろしています。ここはその昔、呉が海軍の本拠地だったことを偲ばせるエリアです。周りは旧海軍工廠のレンガ建造物が並ぶレトロな雰囲気で、戦艦・大和も近くのドックで極秘に建造されました。時代は変わり、今はだれでも自由に散策を楽しめる公園になっています。 「アレイからすこじま」の名前の由来は、呉浦にあった周囲30~40mの「からすこじま」(大正時代に魚雷発射訓練場として埋立)という小島の名称と、英語の小道(アレイ)からきたもの。緑とレンガ色に包まれたアレイ(小道)をゆっくり散策してみませんか? 旧魚雷揚げ下ろしクレーンもあります。
http://www.kurenavi.jp/html/m000008.html


潜水艦のエンジンがかかっていて、黄色い排ガスがそこら中に立ちこめていました。今からどこかに出航か?試験運転か?特別な人への見学用か?
4月30日は今回の旅行の第一目的地である「江田島の旧海軍兵学校」を見学する予定でした。ところがあいにくの雨です。HPを見ると雨が降ると見学を中止します。との記述があったため、泣く泣く見学はあきらめて、次の目的地の広島平和記念公園の見学です。

南から見た世界遺産の原爆ドーム

西から見た世界遺産の原爆ドーム

北から見た世界遺産の原爆ドーム

広島市内はどこへ行っても「NHK大河ドラマ 平清盛」状態です。

昼ご飯は名物のお好み焼きです。駅前にある福屋の食堂街の五エ門ででお好み焼きを堪能します。この店はいつも大行列で大変な賑わいです。

ビールを飲みながらのお好み焼きは最高です。この店は鉄板にあるお好み焼きを金属の小さいへらで切って食べることができます。なれない客は店の人に切ってもらいますが、自分は結構なれているので自分で切って食べます。
いつもは基本の「そば肉玉」ですが、今日は少し趣向を変えて「パワフルそば(ホルモン、ニンニク、しそ、肉玉」1050円を食べました。素直な感想として、最初の一口はなんておいしいのだろう!状態ですが、しばらくするとくどくなってきます。あまり余計なことをしないのが無難です。
個人的におすすめは、「そば肉玉にネギとイカ天のトッピング」です。
http://goemon.in/index.html
福岡神社探訪【筥崎宮】【住吉神社】 [歴史探訪]
10月22日(土)、23日(日)に博多を訪問したときに筥崎宮と住吉神社を訪れました。その時のレポートを行います。
【筥崎宮】


筥崎宮は筥崎八幡宮とも称し、宇佐、石清水両宮とともに日本三大八幡宮に数えられます。
御祭神は筑紫国蚊田(かだ)の里、現在の福岡県宇美町にお生まれになられた応神天皇(第十五代天皇)を主祭神として、神功皇后、玉依姫命をお祀りしています。創建の時期については諸説あり断定することは困難ですが、古録によれば、平安時代の中頃である延喜21年(西暦921)、醍醐(だいご)天皇が神勅により「敵国降伏」(てきこくこうふく)の宸筆(しんぴつ)を下賜され、この地に壮麗な御社殿を建立し、延長元年(923)筑前大分(だいぶ)宮(穂波宮)より遷座したことになっております。創建後は祈りの場として朝野を問わず篤い崇敬を集めるとともに、海外との交流の門戸として重要な役割を果たしました。
鎌倉中期、蒙古(もうこ)襲来(元寇)のおり、俗に云う神風が吹き未曾有の困難に打ち勝ったことから、厄除・勝運の神としても有名です。後世は足利尊氏、大内義隆、小早川隆景、豊臣秀吉など歴史に名だたる武将が参詣、武功・文教にすぐれた八幡大神の御神徳を仰ぎ筥崎宮は隆盛を辿りました。江戸時代には福岡藩初代藩主黒田長政、以下歴代藩主も崇敬を怠ることはありませんでした。明治以降は近代国家を目指す日本とともに有り、同18年には官幣中社に、大正3年には官幣大社に社格を進められ、近年では全国より崇敬を集めるとともに、玉取祭や放生会大祭などの福博の四季を彩る杜(もり)として広く親しまれています。
http://www.hakozakigu.or.jp/history.php

街中にある神社ですが、広く長い参道が残されています。

歴史を感じさせる立派な神社です。
<楼門>
文禄3 年(1594)筑前領主小早川隆景が建立。三間一戸入母屋造(さんけんいっこいりもやづくり)、檜皮茸(ひわだぶき)で83 坪余りの雄大な屋根を有した豪壮な建物。
「敵国降伏」の扁額(へんがく)を掲げていることから伏敵門とも呼ばれる。<公式HP>

応神天皇(おうじんてんのう)[八幡大神]
神功皇后(じんぐうこうごう)[応神天皇の母君]
玉依姫命(たまよりひめのみこと) [海の神・神武天皇(じんむてんのう)の母君]
ここの祭神は「宇佐神宮」と似ていますが、「比売大神」と「玉依姫命」の御祭神が異なるようです。

立派な「手水舎」


敵国降伏の御宸筆は本宮に伝存する第一の神宝であり紺紙に金泥で鮮やかに書かれています。
たて十七・五センチ、よこ18・3センチで全部で三十七葉あります。
社記には醍醐天皇の御宸筆と伝わり、以後の天皇も納めれられた記録があります。特に文永11年(西暦1274)蒙古襲来により炎上した社殿の再興にあたり亀山(かめやま)上皇が納められた事跡は有名です。
楼門高く掲げられている額の文字は文禄年間、筑前領主小早川隆景が楼門を造営した時、謹写拡大したものです。<公式HP>

訪れた日はちょうど七五三の季節でした。かわいい子供たちがたくさん参拝していました。

<西末社>
龍王社:海と空の守り神
若宮殿:芸能文化の守り神
仲哀殿:八幡様の親神、家族の守り神
嚴島殿:旅行安全の神
民潤社:火除の守り神

<東末社>
池島殿:手足の守り神
武内社:不老長寿、健康の神
乙子宮:子育ての神
住吉殿:海上交通の守り神
稲荷社:商売繁昌の神、田畑の守り神

<ご神木筥松>
楼門そばの朱の玉垣で囲まれた松です。筥松またはしるしの松と呼ばれるこの神木は、応神天皇がお生まれになったときの御胞衣(胎盤)を箱に入れ、この地に納めたしるしとして植えられた松です。
この地は、もともと葦津ヶ浦と呼ばれていましたが、この箱が納められたことで箱崎と呼ぶようになりました。


<筆塚>

<湧出石>
古くは地面から露出した部分で天変地異を占った。
この石に触れると運が湧き出るといわれ、招福開運の信仰があります。また国に一大事があるときに地上に姿を現すという、古い言い伝えがある石です。
もしかしたら元寇の時地上に姿を現したかも?
説明書きによると有名な「パワースポット」であるとのこと。早速撫でさせて頂きます。

<さざれ石>
ここにも君が代で有名なさざれ石が置かれていました。「鹿島神宮」のものより小ぶりでした。
【碑文】
この石は、国歌君が代に詠まれている「さざれ石」です
岐阜県と滋賀県の境の伊吹山の麓に産し 学名を石灰質礫岩と云い 永年の間に石灰質が雨水で溶けて生じた粘着力の強い乳状液が 小石を凝結して次第に巨岩となり苔むす

「元寇」に関係するものも展示していました。

<大楠>
かなりの迫力を感じました。

長い参道が西を向いていることから、もしかしたら夕日が参道を通じて本殿に差し込むのではないだろうか?また、ある特定の日に夕日が差し込むように本殿の方向、参道の方向を決めたかもしれない。もしかしたら、古代のアステカの遺跡のように春分の日に神殿に蛇が浮かび上がる、などすごいことがおこるかも?
ということで、早速カシミールで調べてみます。
条件としては、「拝殿に設置した鏡が地表から5mの場所にある。」「2011年の何月何日に参道の後方に太陽が沈むか。」とします。
結果は、2012年7月28日 19時17分44秒となりました。イメージとしては、この時間が来ると本殿に設置した良く磨き上げられた三角縁神獣鏡がきらっと光る瞬間です。その風景を見て参拝者は神の神々しさを体感するでしょう。(厳密な座標がわからない図上での見通しで判定しているのでちょうどその時間に参道の向こうに太陽が沈むとは限りません。また、参道の街路樹も考慮していません。よって、光が届くかは全く想像です。この時間期待して参拝して光が届かない場合ご容赦願います。)
7月28日は夏至である7月22日に近いので、この神社を建立した当時の夏至に沈む太陽の方角に向けて参道、拝殿を計画したのではないでしょうか。

2012年7月28日 19時17分44秒時点太陽が沈む方向には何があるのだろう?ということで、拡大写真がこれです。
この場所は「壱岐市芦辺町」となります。おもしろいことに芦辺町でも町域は「箱崎江角触」、「箱崎釘ノ尾触」、「箱崎大左右触」、「箱崎谷江触」、「箱崎中山触」、「箱崎本村触」、「箱崎諸津触」なのです。福岡の筥崎宮がある場所も「福岡市東区箱崎」と箱崎なのです。「筥」は恐れ多いとして「箱」を使用しているそうです。壱岐の箱崎は「筥崎宮」と関係あるのか謎です。また、「触」という字も曰くがありそうです。時間があれば是非調べてみたいとは思います。

この日は時間が余ったので、福岡市博物館を訪問しました。目的は黒田節で有名な「日本号」を直接見ることです。訪問してわかったことですが、この博物館のメイン展示物は「金印」でした。通常この博物館は金印を見に訪れる人がほとんどのようです。

金印はじっくりと見ましたが撮影禁止でした。仕方がないのでポスターを撮影しました。
どうしてこんな重要なものが田んぼにあったのか?
誰がここに埋めた(置いた)のか?
自分の想像では、どこかの有力者が秘蔵していたが、自己の呵責に耐えかねて表に出す事にした。そのとき、大陸から持ち帰る船が通ったであろう海岸付近の田んぼから出土したように仕組んだのではないのだろうか?どう考えても不思議なすごいミステリーです。
http://museum.city.fukuoka.jp/jb/jb_fr2.html

ここと訪れた目的の槍「日本号」も撮影禁止でした。そこで、せめてと思いポスターを撮影しました。
「日本号」は全くすばらしいもので、緻密な彫刻、美しい螺鈿、最高傑作の芸術品です。都合30分くらい見つめ続けてしまいました。感動、感激です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B7_(%E6%A7%8D)
元来は皇室所有物(御物)で、正三位の位を賜ったという伝承から、「槍に三位の位あり」と謳われた。正親町天皇より室町幕府十五代将軍である足利義昭に下賜され、その後、織田信長を経て豊臣秀吉に渡り、秀吉より福島正則に与えられた。前述の逸話を経て黒田如水の家臣である母里友信が福島正則より貰い受け(酒を飲み干して無理矢理(槍)もらったもの)、朝鮮出兵の際に自身の危機を救った礼として友信より後藤基次に贈られた。
如水の死後、後藤基次が黒田家を出奔する際に野村家(基次の娘が母里友信の弟、野村祐勝の長男祐直に嫁いだため)に渡されて、以後長く伝えられた。大正時代に同家を離れたが、旧福岡藩士出身の安川敬一郎と頭山満の二人が、日本号は福岡の地を離れるべきではない、と大金で購入して、旧藩主黒田家に贈与した。その後、黒田家より福岡市に寄贈され、現在は福岡市博物館の所蔵品として展示されている。
http://www.city.fukuoka.lg.jp/chuoku/kikaku/charm-kankou/ch-jouhouhassin/meisonihongo.html
http://blog.goo.ne.jp/kuroda-bushi/e/133aa1a9c293c670c6872316940ad22a
【住吉神社】

翌日は住吉神社に参拝しました。
<住吉神社>
住吉三神(底筒男命・中筒男命・表筒男命)を主祭神とし、天照皇大神・神功皇后を配祀する。日本全国に約二千社ある住吉三神を祀る神社の中で最も古い神社であるとされ、古書には「住吉本社」「日本第一住吉宮」などと記されている。ただし、現在の全国の住吉神社の総本社は大阪の住吉大社である。大阪の住吉大社、下関の住吉神社、博多の住吉神社の三社が日本三大住吉とされる。
創建年代は不詳であるが、神社の縁起では、日本神話の神産みの段、黄泉から帰還した伊弉諾尊が禊祓を行った「筑紫の日向の橘の小戸の阿波伎原」が住吉神社の地であるとし、その禊祓で住吉三神などが生まれたので当社が住吉神社の始源であるとしている。国史では、『続日本紀』の天平9年(737年)4月1日条に筑紫住吉などに使いを遣わしたとあるのが初出である。延喜式神名帳では「筑前国那珂郡 住吉神社三座 並名神大」と記載されている。
古代の博多湾は住吉神社の前まで海が入り込んでおり、元々の建物は海に向かって建てられていた。
現在の本殿は黒田長政が元和9年(1623年)に再建したもので、国の重要文化財に指定されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%8F%E5%90%89%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E5%B8%82)

朱色が鮮やかな神社です。
<歴史>
当社の歴史は、およそ1,800年以上前に遡ります。全国に2,129社ある住吉神社の中でも、最初の神社と云われており、古書にも当社のことを「住吉本社」「日本第一住吉宮」などと記されています。(公式HP)
http://chikuzen-sumiyoshi.or.jp/index.html

もうじき大相撲博多場所が始まります。その時に横綱の土俵入りを行うようです。

立派な樹木がありました。

1月に行われる追儺祭(ついなさい)では鬼が登場して、「鬼は外、鬼は外」と豆をまいたあとに、鬼に扮した人が注連縄を焼く火の回りを3回ほど回り、その後、神官によってつかまり、縄で縛られ、「鬼縛り石」と呼ばれる石に縛り付けられるそうです。
どんど焼きと節分を合わせたようなイメージの神事があるようです。

「凡そ五百七十年程昔 後花園天皇の御代永享11年 住吉宮の御社殿御造営の時に 年を経た松が斜に傾いて大きな枝が御屋根をこすって危なかしいので 皆々相談の上伐ってしまう事に決めた處 その松が一夜のうちに まっすぐに立ち直ったので人々はその不思議に驚き 御神威の有難さを畏み「一夜の松」と称えて崇め敬うようになった・・・」と説明板にある。

朱の色が映える本殿です。

今日は結婚式が予定されているようです。白無垢を着たきれいな花嫁さんが写真撮影を行っていました。

苔むした歴史を感じさせる狛犬です。頭に一つ角があります。

結構大きな神社にある土俵がここにもありました。
【筥崎宮】
筥崎宮は筥崎八幡宮とも称し、宇佐、石清水両宮とともに日本三大八幡宮に数えられます。
御祭神は筑紫国蚊田(かだ)の里、現在の福岡県宇美町にお生まれになられた応神天皇(第十五代天皇)を主祭神として、神功皇后、玉依姫命をお祀りしています。創建の時期については諸説あり断定することは困難ですが、古録によれば、平安時代の中頃である延喜21年(西暦921)、醍醐(だいご)天皇が神勅により「敵国降伏」(てきこくこうふく)の宸筆(しんぴつ)を下賜され、この地に壮麗な御社殿を建立し、延長元年(923)筑前大分(だいぶ)宮(穂波宮)より遷座したことになっております。創建後は祈りの場として朝野を問わず篤い崇敬を集めるとともに、海外との交流の門戸として重要な役割を果たしました。
鎌倉中期、蒙古(もうこ)襲来(元寇)のおり、俗に云う神風が吹き未曾有の困難に打ち勝ったことから、厄除・勝運の神としても有名です。後世は足利尊氏、大内義隆、小早川隆景、豊臣秀吉など歴史に名だたる武将が参詣、武功・文教にすぐれた八幡大神の御神徳を仰ぎ筥崎宮は隆盛を辿りました。江戸時代には福岡藩初代藩主黒田長政、以下歴代藩主も崇敬を怠ることはありませんでした。明治以降は近代国家を目指す日本とともに有り、同18年には官幣中社に、大正3年には官幣大社に社格を進められ、近年では全国より崇敬を集めるとともに、玉取祭や放生会大祭などの福博の四季を彩る杜(もり)として広く親しまれています。
http://www.hakozakigu.or.jp/history.php
街中にある神社ですが、広く長い参道が残されています。
歴史を感じさせる立派な神社です。
<楼門>
文禄3 年(1594)筑前領主小早川隆景が建立。三間一戸入母屋造(さんけんいっこいりもやづくり)、檜皮茸(ひわだぶき)で83 坪余りの雄大な屋根を有した豪壮な建物。
「敵国降伏」の扁額(へんがく)を掲げていることから伏敵門とも呼ばれる。<公式HP>
応神天皇(おうじんてんのう)[八幡大神]
神功皇后(じんぐうこうごう)[応神天皇の母君]
玉依姫命(たまよりひめのみこと) [海の神・神武天皇(じんむてんのう)の母君]
ここの祭神は「宇佐神宮」と似ていますが、「比売大神」と「玉依姫命」の御祭神が異なるようです。
立派な「手水舎」
敵国降伏の御宸筆は本宮に伝存する第一の神宝であり紺紙に金泥で鮮やかに書かれています。
たて十七・五センチ、よこ18・3センチで全部で三十七葉あります。
社記には醍醐天皇の御宸筆と伝わり、以後の天皇も納めれられた記録があります。特に文永11年(西暦1274)蒙古襲来により炎上した社殿の再興にあたり亀山(かめやま)上皇が納められた事跡は有名です。
楼門高く掲げられている額の文字は文禄年間、筑前領主小早川隆景が楼門を造営した時、謹写拡大したものです。<公式HP>
訪れた日はちょうど七五三の季節でした。かわいい子供たちがたくさん参拝していました。
<西末社>
龍王社:海と空の守り神
若宮殿:芸能文化の守り神
仲哀殿:八幡様の親神、家族の守り神
嚴島殿:旅行安全の神
民潤社:火除の守り神
<東末社>
池島殿:手足の守り神
武内社:不老長寿、健康の神
乙子宮:子育ての神
住吉殿:海上交通の守り神
稲荷社:商売繁昌の神、田畑の守り神
<ご神木筥松>
楼門そばの朱の玉垣で囲まれた松です。筥松またはしるしの松と呼ばれるこの神木は、応神天皇がお生まれになったときの御胞衣(胎盤)を箱に入れ、この地に納めたしるしとして植えられた松です。
この地は、もともと葦津ヶ浦と呼ばれていましたが、この箱が納められたことで箱崎と呼ぶようになりました。
<筆塚>
<湧出石>
古くは地面から露出した部分で天変地異を占った。
この石に触れると運が湧き出るといわれ、招福開運の信仰があります。また国に一大事があるときに地上に姿を現すという、古い言い伝えがある石です。
もしかしたら元寇の時地上に姿を現したかも?
説明書きによると有名な「パワースポット」であるとのこと。早速撫でさせて頂きます。
<さざれ石>
ここにも君が代で有名なさざれ石が置かれていました。「鹿島神宮」のものより小ぶりでした。
【碑文】
この石は、国歌君が代に詠まれている「さざれ石」です
岐阜県と滋賀県の境の伊吹山の麓に産し 学名を石灰質礫岩と云い 永年の間に石灰質が雨水で溶けて生じた粘着力の強い乳状液が 小石を凝結して次第に巨岩となり苔むす
「元寇」に関係するものも展示していました。
<大楠>
かなりの迫力を感じました。

長い参道が西を向いていることから、もしかしたら夕日が参道を通じて本殿に差し込むのではないだろうか?また、ある特定の日に夕日が差し込むように本殿の方向、参道の方向を決めたかもしれない。もしかしたら、古代のアステカの遺跡のように春分の日に神殿に蛇が浮かび上がる、などすごいことがおこるかも?
ということで、早速カシミールで調べてみます。
条件としては、「拝殿に設置した鏡が地表から5mの場所にある。」「2011年の何月何日に参道の後方に太陽が沈むか。」とします。
結果は、2012年7月28日 19時17分44秒となりました。イメージとしては、この時間が来ると本殿に設置した良く磨き上げられた三角縁神獣鏡がきらっと光る瞬間です。その風景を見て参拝者は神の神々しさを体感するでしょう。(厳密な座標がわからない図上での見通しで判定しているのでちょうどその時間に参道の向こうに太陽が沈むとは限りません。また、参道の街路樹も考慮していません。よって、光が届くかは全く想像です。この時間期待して参拝して光が届かない場合ご容赦願います。)
7月28日は夏至である7月22日に近いので、この神社を建立した当時の夏至に沈む太陽の方角に向けて参道、拝殿を計画したのではないでしょうか。

2012年7月28日 19時17分44秒時点太陽が沈む方向には何があるのだろう?ということで、拡大写真がこれです。
この場所は「壱岐市芦辺町」となります。おもしろいことに芦辺町でも町域は「箱崎江角触」、「箱崎釘ノ尾触」、「箱崎大左右触」、「箱崎谷江触」、「箱崎中山触」、「箱崎本村触」、「箱崎諸津触」なのです。福岡の筥崎宮がある場所も「福岡市東区箱崎」と箱崎なのです。「筥」は恐れ多いとして「箱」を使用しているそうです。壱岐の箱崎は「筥崎宮」と関係あるのか謎です。また、「触」という字も曰くがありそうです。時間があれば是非調べてみたいとは思います。

この日は時間が余ったので、福岡市博物館を訪問しました。目的は黒田節で有名な「日本号」を直接見ることです。訪問してわかったことですが、この博物館のメイン展示物は「金印」でした。通常この博物館は金印を見に訪れる人がほとんどのようです。
金印はじっくりと見ましたが撮影禁止でした。仕方がないのでポスターを撮影しました。
どうしてこんな重要なものが田んぼにあったのか?
誰がここに埋めた(置いた)のか?
自分の想像では、どこかの有力者が秘蔵していたが、自己の呵責に耐えかねて表に出す事にした。そのとき、大陸から持ち帰る船が通ったであろう海岸付近の田んぼから出土したように仕組んだのではないのだろうか?どう考えても不思議なすごいミステリーです。
http://museum.city.fukuoka.jp/jb/jb_fr2.html
ここと訪れた目的の槍「日本号」も撮影禁止でした。そこで、せめてと思いポスターを撮影しました。
「日本号」は全くすばらしいもので、緻密な彫刻、美しい螺鈿、最高傑作の芸術品です。都合30分くらい見つめ続けてしまいました。感動、感激です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B7_(%E6%A7%8D)
元来は皇室所有物(御物)で、正三位の位を賜ったという伝承から、「槍に三位の位あり」と謳われた。正親町天皇より室町幕府十五代将軍である足利義昭に下賜され、その後、織田信長を経て豊臣秀吉に渡り、秀吉より福島正則に与えられた。前述の逸話を経て黒田如水の家臣である母里友信が福島正則より貰い受け(酒を飲み干して無理矢理(槍)もらったもの)、朝鮮出兵の際に自身の危機を救った礼として友信より後藤基次に贈られた。
如水の死後、後藤基次が黒田家を出奔する際に野村家(基次の娘が母里友信の弟、野村祐勝の長男祐直に嫁いだため)に渡されて、以後長く伝えられた。大正時代に同家を離れたが、旧福岡藩士出身の安川敬一郎と頭山満の二人が、日本号は福岡の地を離れるべきではない、と大金で購入して、旧藩主黒田家に贈与した。その後、黒田家より福岡市に寄贈され、現在は福岡市博物館の所蔵品として展示されている。
http://www.city.fukuoka.lg.jp/chuoku/kikaku/charm-kankou/ch-jouhouhassin/meisonihongo.html
http://blog.goo.ne.jp/kuroda-bushi/e/133aa1a9c293c670c6872316940ad22a
【住吉神社】
翌日は住吉神社に参拝しました。
<住吉神社>
住吉三神(底筒男命・中筒男命・表筒男命)を主祭神とし、天照皇大神・神功皇后を配祀する。日本全国に約二千社ある住吉三神を祀る神社の中で最も古い神社であるとされ、古書には「住吉本社」「日本第一住吉宮」などと記されている。ただし、現在の全国の住吉神社の総本社は大阪の住吉大社である。大阪の住吉大社、下関の住吉神社、博多の住吉神社の三社が日本三大住吉とされる。
創建年代は不詳であるが、神社の縁起では、日本神話の神産みの段、黄泉から帰還した伊弉諾尊が禊祓を行った「筑紫の日向の橘の小戸の阿波伎原」が住吉神社の地であるとし、その禊祓で住吉三神などが生まれたので当社が住吉神社の始源であるとしている。国史では、『続日本紀』の天平9年(737年)4月1日条に筑紫住吉などに使いを遣わしたとあるのが初出である。延喜式神名帳では「筑前国那珂郡 住吉神社三座 並名神大」と記載されている。
古代の博多湾は住吉神社の前まで海が入り込んでおり、元々の建物は海に向かって建てられていた。
現在の本殿は黒田長政が元和9年(1623年)に再建したもので、国の重要文化財に指定されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%8F%E5%90%89%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E5%B8%82)
朱色が鮮やかな神社です。
<歴史>
当社の歴史は、およそ1,800年以上前に遡ります。全国に2,129社ある住吉神社の中でも、最初の神社と云われており、古書にも当社のことを「住吉本社」「日本第一住吉宮」などと記されています。(公式HP)
http://chikuzen-sumiyoshi.or.jp/index.html
もうじき大相撲博多場所が始まります。その時に横綱の土俵入りを行うようです。
立派な樹木がありました。
1月に行われる追儺祭(ついなさい)では鬼が登場して、「鬼は外、鬼は外」と豆をまいたあとに、鬼に扮した人が注連縄を焼く火の回りを3回ほど回り、その後、神官によってつかまり、縄で縛られ、「鬼縛り石」と呼ばれる石に縛り付けられるそうです。
どんど焼きと節分を合わせたようなイメージの神事があるようです。
「凡そ五百七十年程昔 後花園天皇の御代永享11年 住吉宮の御社殿御造営の時に 年を経た松が斜に傾いて大きな枝が御屋根をこすって危なかしいので 皆々相談の上伐ってしまう事に決めた處 その松が一夜のうちに まっすぐに立ち直ったので人々はその不思議に驚き 御神威の有難さを畏み「一夜の松」と称えて崇め敬うようになった・・・」と説明板にある。
朱の色が映える本殿です。
今日は結婚式が予定されているようです。白無垢を着たきれいな花嫁さんが写真撮影を行っていました。
苔むした歴史を感じさせる狛犬です。頭に一つ角があります。
結構大きな神社にある土俵がここにもありました。
国譲り神話の謎 [歴史探訪]
10月16日(日)関東のパワースポット「鹿島神宮」「香取神宮」「息栖神社」を訪ねたことを受けて、いろんな事に関心が向きました。
特に「国譲り神話」が作られた背景には、かなり興味をそそられいろんな角度から謎の解明に取りかかる始めました。
再掲(おさらい)
-------------------
国譲り神話のあらすじ
出雲の有名な国譲りは、高天原の神々が、オオクニヌシに葦原中つ国の支配権を譲るように迫り、ついに承諾させるというものです。国譲りは、もちろんあっさりとスムーズに行われたのではありません。
高天原から、最初は天穂日命(あまのほひのみこと)が、次には天稚彦(あまのわかひこ))が国譲りの交渉役に遣わされますが、どちらもオオクニヌシに従ってしまって、高天原に帰ってこない。そこで武甕槌神(たけみかつちのかみ)【鹿島神宮】と天鳥船神(あまのとりふねのかみ)【息栖神社】(『日本書紀』では武甕槌神と経津主神(ふつぬしのかみ)【香取神宮】)が遣わされ、稲佐の浜に剣を突き立てて国譲りを迫るというものです。
オオクニヌシは、ふたりの息子に意見を求めようとします。すると、釣りに出ていた事代主神(ことしろぬしのかみ)は国譲りに承諾しますが、もうひとりの息子、健御名方神(たけみなかたのかみ)は反対します。
そこで、健御名方神と武甕槌神の間で力競べが行われ、オオクニヌシの息子が敗れてしまいます。そのために、とうとう国譲りが実行されるのです。敗れた健御名方神は諏訪まで逃げ、その地に引き籠もって諏訪神社の祭神になったとされています。
いずれにしても、これは国譲りという説話になってはいますが、実際は、剣を突き刺して迫り、そのあげく力競べをするというように、武力で奪い取った色彩が強い。いわば、オオクニヌシが造りあげた国土を天孫族【漢字と鉄剣を持ち込んだ大陸系の部族】が武力で奪っているわけです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%A6%E5%8E%9F%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%B9%B3%E5%AE%9A
今回までに判明した謎を発表します。

前回までの調査で、諏訪大社から伊勢神宮まで南西の関係がある事がわかった。その後の調査で、その直線上に岐阜の恵那山があることが判明。これは何か関係があるのかな?ということで、ネット調査です。
その結果、
・恵那神社は延喜式神名帳 (927年/延長5年) にも記載されている恵奈郡三座のうちの一つ。
・恵那山は恵那郡第一の髙峰にして (二一九〇米) 神代の世、天照大神の御胞衣を此の山頂に納めた。
・恵那神社の鎮座させられたるも神代の時なり。
・古事記、日本書紀に日本武尊この山に御登拝の記事あり。
・恵那神社の主祭神は天照大神の親である伊邪那岐、伊邪那美。また摂社に天照大神も祀られている。
・山頂付近のヒノキは、昔は伊勢神宮に奉納されていた。
・倭姫命が天照大神をお祀りする地を探している時にこの地を仮宮とし、占いをして現在の伊勢神宮に遷座したという新説である。(伊勢神宮が現在の場所に決まるまで各地を移動した事は日本書紀に書かれており、その地は元伊勢と呼ばれている。そして「倭姫命世紀」によれば岡山から岐阜にかけて 26 ヶ所にも及ぶということである)
いろいろと曰くがありそうです。
特に伊勢神宮の位置を決めるのにこの山に登ったという記述が気になります。個人的な推定ですが、この山に登り、諏訪大社と恵那山が通過する延長線上に伊勢神宮を設置したかもしれません。
もちろん一番の目的は大和朝廷に最後まで抵抗した在来の神がヤマト地方に災いを持ち込まなくするためでしょう。

大国主命が鎮座する出雲大社の真東(春分と秋分に太陽が昇る方向)を見てみると、信仰の霊峰で有名な大山、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が死んでしまう原因となった伊吹山、そしてなんと恵那山も真東に当たります。これらの日の出の方角にあるパワースポットが、大国主命がこの世でたたりを起こさないように押さえ込んでいるのでしょう。

ここでも正三角形の関係で古い神社の存在が判明しました。
都久夫須麻神社(つくぶすまじんじゃ)は滋賀県長浜市の竹生島にある神社。竹生島神社(ちくぶじまじんじゃ)とも。式内社で、旧社格は県社。
社伝では、雄略天皇3年(420年)に浅井姫命を祀る小祠が作られたのに始まると伝える。『近江国風土記』には、夷服岳(伊吹山)の多多美比古命が姪にあたる浅井岳(金糞岳)の浅井姫命と高さ比べをし、負けた多多美比古命が怒って浅井姫命の首を斬ったところ、湖に落ちた首が竹生島になったという記述がある。一説には首が沈む時に「都布都布(つふつふ)」という音がしたので「都布失島」という名前になったとも、最初に生えたのが竹であったことから「竹生島」という名前になったともいう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%BD%E4%B9%85%E5%A4%AB%E9%A0%88%E9%BA%BB%E7%A5%9E%E7%A4%BE

少し見方を変えて得意のカシミールで平城京の太極殿(地上から10m)に立って日の出を見たとき、伊勢神宮の方向から昇ってくる日はいつか調べました。
2011年でいうと、10月25日6時31分に伊勢神宮方向の春日山から日が昇ることが判明しました。この方角をよく見ると、藤原一族が鹿島神宮から分霊して守り神とした春日大社の方角と伊勢神宮が同方向であることが判明。つまり、平城京と伊勢神宮の間に春日大社(鹿島神宮)があります。また、勉強不足でわかりませんが、10月25日前後の日にちが天皇家および藤原氏にとって何らかの意味がありそうです。もしかしたら、伊勢神宮のHPに書かれている神嘗祭(かんなめさい)【神嘗祭はその年の初穂を、神々に捧げるという意味がある。年間の中でも最重要の祭りです。「神々の正月は神嘗祭」とも言われ、祭り器具など出来る限り新調します。】の頃を指しているかもしれません。

夏至に伊勢神宮から見える日の出はどの方角から出てくるか調べてみました。すると、5時24分に鹿島神宮の方角の山から太陽が顔を覗かせることが判明。

夏至に伊勢神宮から見える日の入りはどの方角か調べてみました。すると、17時53分に出雲大社の方角の山に太陽が沈むことが判明。この結果は自分にとって驚きでした。
今の時代では今回使ったカシミールを使えば簡単に日の出日没が判明しますが1200から1300年前に計算が出来たとすると大変な事であったと思われます。

今回わかったことを図示してみました。
・出雲大社(大国主命)の真東には、大山、伊吹山、恵那山がある。
・平城京は、出雲大社と伊勢神宮を結ぶ直線上に位置する。
・平城京の日の出の方角に春日大社(鹿島神宮)と伊勢神宮がある。(太陽神が日の出の方角から都を守っているのか。)
・平城京からみて、4月28日と8月16日の日の入りの方角に出雲大社が位置する。
・夏至(6月21日)には、伊勢神宮から見る太陽は鹿島神宮がある方角から昇ってくる。
・夏至(6月21日)には、伊勢神宮から見る太陽は出雲大社がある方角に沈む。
・伊勢神宮から考えて鹿島神宮までの距離と出雲大社までの距離は390キロで同じ距離。
・諏訪大社と伊勢神宮のを結ぶ延長線上に恵那山がある。
・諏訪大社の真東(日の昇る方角)に鹿島神宮がある。
特に「国譲り神話」が作られた背景には、かなり興味をそそられいろんな角度から謎の解明に取りかかる始めました。
再掲(おさらい)
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国譲り神話のあらすじ
出雲の有名な国譲りは、高天原の神々が、オオクニヌシに葦原中つ国の支配権を譲るように迫り、ついに承諾させるというものです。国譲りは、もちろんあっさりとスムーズに行われたのではありません。
高天原から、最初は天穂日命(あまのほひのみこと)が、次には天稚彦(あまのわかひこ))が国譲りの交渉役に遣わされますが、どちらもオオクニヌシに従ってしまって、高天原に帰ってこない。そこで武甕槌神(たけみかつちのかみ)【鹿島神宮】と天鳥船神(あまのとりふねのかみ)【息栖神社】(『日本書紀』では武甕槌神と経津主神(ふつぬしのかみ)【香取神宮】)が遣わされ、稲佐の浜に剣を突き立てて国譲りを迫るというものです。
オオクニヌシは、ふたりの息子に意見を求めようとします。すると、釣りに出ていた事代主神(ことしろぬしのかみ)は国譲りに承諾しますが、もうひとりの息子、健御名方神(たけみなかたのかみ)は反対します。
そこで、健御名方神と武甕槌神の間で力競べが行われ、オオクニヌシの息子が敗れてしまいます。そのために、とうとう国譲りが実行されるのです。敗れた健御名方神は諏訪まで逃げ、その地に引き籠もって諏訪神社の祭神になったとされています。
いずれにしても、これは国譲りという説話になってはいますが、実際は、剣を突き刺して迫り、そのあげく力競べをするというように、武力で奪い取った色彩が強い。いわば、オオクニヌシが造りあげた国土を天孫族【漢字と鉄剣を持ち込んだ大陸系の部族】が武力で奪っているわけです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%A6%E5%8E%9F%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%B9%B3%E5%AE%9A
今回までに判明した謎を発表します。

前回までの調査で、諏訪大社から伊勢神宮まで南西の関係がある事がわかった。その後の調査で、その直線上に岐阜の恵那山があることが判明。これは何か関係があるのかな?ということで、ネット調査です。
その結果、
・恵那神社は延喜式神名帳 (927年/延長5年) にも記載されている恵奈郡三座のうちの一つ。
・恵那山は恵那郡第一の髙峰にして (二一九〇米) 神代の世、天照大神の御胞衣を此の山頂に納めた。
・恵那神社の鎮座させられたるも神代の時なり。
・古事記、日本書紀に日本武尊この山に御登拝の記事あり。
・恵那神社の主祭神は天照大神の親である伊邪那岐、伊邪那美。また摂社に天照大神も祀られている。
・山頂付近のヒノキは、昔は伊勢神宮に奉納されていた。
・倭姫命が天照大神をお祀りする地を探している時にこの地を仮宮とし、占いをして現在の伊勢神宮に遷座したという新説である。(伊勢神宮が現在の場所に決まるまで各地を移動した事は日本書紀に書かれており、その地は元伊勢と呼ばれている。そして「倭姫命世紀」によれば岡山から岐阜にかけて 26 ヶ所にも及ぶということである)
いろいろと曰くがありそうです。
特に伊勢神宮の位置を決めるのにこの山に登ったという記述が気になります。個人的な推定ですが、この山に登り、諏訪大社と恵那山が通過する延長線上に伊勢神宮を設置したかもしれません。
もちろん一番の目的は大和朝廷に最後まで抵抗した在来の神がヤマト地方に災いを持ち込まなくするためでしょう。

大国主命が鎮座する出雲大社の真東(春分と秋分に太陽が昇る方向)を見てみると、信仰の霊峰で有名な大山、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が死んでしまう原因となった伊吹山、そしてなんと恵那山も真東に当たります。これらの日の出の方角にあるパワースポットが、大国主命がこの世でたたりを起こさないように押さえ込んでいるのでしょう。

ここでも正三角形の関係で古い神社の存在が判明しました。
都久夫須麻神社(つくぶすまじんじゃ)は滋賀県長浜市の竹生島にある神社。竹生島神社(ちくぶじまじんじゃ)とも。式内社で、旧社格は県社。
社伝では、雄略天皇3年(420年)に浅井姫命を祀る小祠が作られたのに始まると伝える。『近江国風土記』には、夷服岳(伊吹山)の多多美比古命が姪にあたる浅井岳(金糞岳)の浅井姫命と高さ比べをし、負けた多多美比古命が怒って浅井姫命の首を斬ったところ、湖に落ちた首が竹生島になったという記述がある。一説には首が沈む時に「都布都布(つふつふ)」という音がしたので「都布失島」という名前になったとも、最初に生えたのが竹であったことから「竹生島」という名前になったともいう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%BD%E4%B9%85%E5%A4%AB%E9%A0%88%E9%BA%BB%E7%A5%9E%E7%A4%BE

少し見方を変えて得意のカシミールで平城京の太極殿(地上から10m)に立って日の出を見たとき、伊勢神宮の方向から昇ってくる日はいつか調べました。
2011年でいうと、10月25日6時31分に伊勢神宮方向の春日山から日が昇ることが判明しました。この方角をよく見ると、藤原一族が鹿島神宮から分霊して守り神とした春日大社の方角と伊勢神宮が同方向であることが判明。つまり、平城京と伊勢神宮の間に春日大社(鹿島神宮)があります。また、勉強不足でわかりませんが、10月25日前後の日にちが天皇家および藤原氏にとって何らかの意味がありそうです。もしかしたら、伊勢神宮のHPに書かれている神嘗祭(かんなめさい)【神嘗祭はその年の初穂を、神々に捧げるという意味がある。年間の中でも最重要の祭りです。「神々の正月は神嘗祭」とも言われ、祭り器具など出来る限り新調します。】の頃を指しているかもしれません。

夏至に伊勢神宮から見える日の出はどの方角から出てくるか調べてみました。すると、5時24分に鹿島神宮の方角の山から太陽が顔を覗かせることが判明。

夏至に伊勢神宮から見える日の入りはどの方角か調べてみました。すると、17時53分に出雲大社の方角の山に太陽が沈むことが判明。この結果は自分にとって驚きでした。
今の時代では今回使ったカシミールを使えば簡単に日の出日没が判明しますが1200から1300年前に計算が出来たとすると大変な事であったと思われます。

今回わかったことを図示してみました。
・出雲大社(大国主命)の真東には、大山、伊吹山、恵那山がある。
・平城京は、出雲大社と伊勢神宮を結ぶ直線上に位置する。
・平城京の日の出の方角に春日大社(鹿島神宮)と伊勢神宮がある。(太陽神が日の出の方角から都を守っているのか。)
・平城京からみて、4月28日と8月16日の日の入りの方角に出雲大社が位置する。
・夏至(6月21日)には、伊勢神宮から見る太陽は鹿島神宮がある方角から昇ってくる。
・夏至(6月21日)には、伊勢神宮から見る太陽は出雲大社がある方角に沈む。
・伊勢神宮から考えて鹿島神宮までの距離と出雲大社までの距離は390キロで同じ距離。
・諏訪大社と伊勢神宮のを結ぶ延長線上に恵那山がある。
・諏訪大社の真東(日の昇る方角)に鹿島神宮がある。
博多グルメ旅行 [食べ歩き]
JALのマイレージが切れてしまう!!
ということで、急遽10月22日(土)、23日(日)博多旅行です。
博多に決めたのは、以前単身赴任をしていたことがあり、とっても好きな町であること。空港から市街地まで近く、レンタカーを借りなくても行動できる。飛行機の便数が多くタダ券がとりやすい。そして一番の理由はおいしいものがたくさんあるということでしょう。

行きの飛行機はボーイング777でした。

少し昼には早いが、空港ターミナルで餃子付き博多ラーメンを頂きます。

紅ショウガとごまを振ってから食べます。

ふと壁を見ると「九州のお米を使用」という文字が目に入りました。毎日本州産の米を食べているものにとっては悲しくなる一文です。

三時のコーヒータイムはキャナルシティーで美しい歌声付きの生ピアノを聞きながら優雅に過ごします。

外では所定の時間がきたのか突然噴水ショーが始まりました。

間食を抜いた腹ぺこ状態で中州に繰り出します。

中州の万潮でイカの活きづくりを堪能します。呼子のイカは最高です。

郷土料理であるがめ煮(筑前煮)も食します。

今回のメインイベント鯖の活き作りです。まだ生きている証拠として尾ビレをふるわせている中頂きます。いつも思うことですが、なぜ九州で食べる「サバ」と「アジ」の活き作りはおいしいのでしょうか?大変おいしく頂きました。

先ほど食べたイカが天ぷらになって再登場です。

調子に乗ってもつ鍋も食します。腹は満腹状態ですが、おいしく頂きました。残念なことに、鯖を使った味噌汁もついていましたが限界を感じ断念です。

しばらく食後の散歩を行います。

夜も更けた頃、少しおなかに余裕が出来たので春吉橋の近くの餃子専門店で餃子を頂きます。この店は、酒を飲んだ後家に帰る前によく食べていた店で博多に来る機会がある度に寄っています。

キャナルそばのドーミーインの朝食です。

ホテルから博多駅に歩く途中にある「住吉神社」には横綱土俵入りの行事があるとの掲示がされていました。

博多駅ビルには大きな滝壺があり、美人買い物客がもう少しで落ちるところでした。

博多空港での昼食は焼きカレーです。飛行機を眺めながら食事タイムです。

全日空といえば紺色のカラーリングと思っていましたが、ゴールドのカラーリングのものもある事が初めて気づきました。
あとがき:旅行3日後の26日水曜日は人間ドックの日です。メタボの淵で頑張って?いる自分としてはちょっと食べ過ぎたかなと後悔しきりです。・・・結果は腹回りOK、血圧OK、(血液検査は現在解析中で不明)。と胸をなで下ろした次第です。(今回から、計測者にわからない腹のへこませ方を体得し実践。その結果無事クリア)
ということで、急遽10月22日(土)、23日(日)博多旅行です。
博多に決めたのは、以前単身赴任をしていたことがあり、とっても好きな町であること。空港から市街地まで近く、レンタカーを借りなくても行動できる。飛行機の便数が多くタダ券がとりやすい。そして一番の理由はおいしいものがたくさんあるということでしょう。
行きの飛行機はボーイング777でした。
少し昼には早いが、空港ターミナルで餃子付き博多ラーメンを頂きます。
紅ショウガとごまを振ってから食べます。
ふと壁を見ると「九州のお米を使用」という文字が目に入りました。毎日本州産の米を食べているものにとっては悲しくなる一文です。
三時のコーヒータイムはキャナルシティーで美しい歌声付きの生ピアノを聞きながら優雅に過ごします。
外では所定の時間がきたのか突然噴水ショーが始まりました。
間食を抜いた腹ぺこ状態で中州に繰り出します。
中州の万潮でイカの活きづくりを堪能します。呼子のイカは最高です。
郷土料理であるがめ煮(筑前煮)も食します。
今回のメインイベント鯖の活き作りです。まだ生きている証拠として尾ビレをふるわせている中頂きます。いつも思うことですが、なぜ九州で食べる「サバ」と「アジ」の活き作りはおいしいのでしょうか?大変おいしく頂きました。
先ほど食べたイカが天ぷらになって再登場です。
調子に乗ってもつ鍋も食します。腹は満腹状態ですが、おいしく頂きました。残念なことに、鯖を使った味噌汁もついていましたが限界を感じ断念です。
しばらく食後の散歩を行います。
夜も更けた頃、少しおなかに余裕が出来たので春吉橋の近くの餃子専門店で餃子を頂きます。この店は、酒を飲んだ後家に帰る前によく食べていた店で博多に来る機会がある度に寄っています。
キャナルそばのドーミーインの朝食です。
ホテルから博多駅に歩く途中にある「住吉神社」には横綱土俵入りの行事があるとの掲示がされていました。
博多駅ビルには大きな滝壺があり、美人買い物客がもう少しで落ちるところでした。

博多空港での昼食は焼きカレーです。飛行機を眺めながら食事タイムです。
全日空といえば紺色のカラーリングと思っていましたが、ゴールドのカラーリングのものもある事が初めて気づきました。
あとがき:旅行3日後の26日水曜日は人間ドックの日です。メタボの淵で頑張って?いる自分としてはちょっと食べ過ぎたかなと後悔しきりです。・・・結果は腹回りOK、血圧OK、(血液検査は現在解析中で不明)。と胸をなで下ろした次第です。(今回から、計測者にわからない腹のへこませ方を体得し実践。その結果無事クリア)
東国三社パワースポット探しの旅 [歴史探訪]
10月16日(日)関東のパワースポット「鹿島神宮」「香取神宮」「息栖神社」を訪ねました。
この神社を訪ねたのは、昔から疑問に思っていたいろんな謎を直に感じてみたかったからです。
1.昔神宮と名のつく社(やしろ)が日本に3社存在(「伊勢神宮」「鹿島神宮」「香取神宮」)そのうちなんと2社が遠く大和から離れた関東に存在した。
2.東国三社の位置関係が直角二等辺三角形の位置関係にある。
http://www.kamisu-kanko.jp/power/index.html
3.今回訪ねた神社の周辺には変わった地名が多い。たとえば、潮来(いたこ)、行方(なめかた)など。
4.東国3社の神々は、天照大神と大国主命で有名な国譲り神話で登場する神
5.鹿島神宮は国譲り神話で最後まで抵抗した神がまつられている諏訪神社の真東の方角にある。
これらの不思議にどこまで迫れるか早速探検です。

まずは「香取神宮」を訪ねます。
祭神:経津主大神(ふつぬしのおおかみ)
大神は鹿島神宮の大神と一緒に共同し、この国に以前から住んでいた荒ぶる神々を平定したことで有名です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%99%E5%8F%96%E7%A5%9E%E5%AE%AE

歴史を感じさせる神社です。

境内の銀杏にはぎんなんがなっていました。

我が国国土開拓の大業を果たされた建国の大功神であると記されています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%8C%E6%B4%A5%E4%B8%BB%E7%A5%9E

香取神宮の正面です

門をくぐり右の方角を見たところです。

境内には正倉院のような建物がありました。きっと古くからの古文書などが納められているのでしょう。

入って右奥の角から本殿を見たところです。千木が垂直(縦)に切られているので、男の神がまつられていることがわかります。また、屋根の上の丸木の鰹木が9本と奇数になっているのでこの本数からも男神をまつってあることがわかります。

別の角度から本殿を見たところです。

日光の東照宮陽明門を感じさせる色彩豊かな作りです。

時の権力者が使用する五七の桐の家紋です。何か意味があると思いますが、両側の五つ花が外に傾いています。

この神社の参道にある石灯籠がかなりの数、崩れ落ちていました。修復にお金がかかるのでしょうが、痛々しい限りです。

「奧宮」「要石」の説明がありました。この地に地震を引き起こすナマズがいたので「要石」が押さえ込んでいるようです。最近「要石」の効力が弱まった為、石灯灯籠が倒れてしまったのか?ちなみに同じような要石がある鹿島神宮の石灯籠は一つも倒れていなかった。

言い伝えによると、地上に出ている部分は少しだが、かなり深くまで埋まっているようです。

奥宮にやってきました。

奥宮の祭神は女の神?先ほど立っていた説明書きには経津主大神(男の神)となっていましたが、なぜ男の神が女性用の社殿に入っているのか大きな謎です。

2社目の訪問は「息栖神社」です。御祭神は、鳥之石楠船神(とりのいわくすふねのかみ)で、日本神話に登場する神であり、また、神が乗る船の名前です。別名を天鳥船(あめのとりふね)といいます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%AF%E6%A0%96%E7%A5%9E%E7%A4%BE

「香取神宮」とは違い、こじんまりとした神社です。

神社の由緒が書かれています。

本殿は新しく、コンクリート造りでした。

参道の入り口は利根川付近です。
不思議な井戸が二つありました。

神社の入り口は川(船着き場)と面しています。自由に動き回れる船の神がご神体ということがよくわかります。

最後に訪れたのは三社の中で最も有名な「鹿島神宮」です。
人も多く、駐車場は有料です。境内の規模も桁外れに大きいものです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E5%B3%B6%E7%A5%9E%E5%AE%AE

常陸国一宮である「鹿島神宮」はお金もかかっています。

高い壁越しに本殿を見たところです。千木は縦切りなので男の神様であることがわかります。

お金がかかっている神社には玉砂利が使用されているところが多いが、ここの参道は質素に砂舗装です。

「君が代」で有名なさざれ石がありました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%95%E3%81%96%E3%82%8C%E7%9F%B3

しばらく歩いて奥宮に到着です。

奥宮の奧にはきれいな池がありました。

大神がナマズの頭を押さえつけて地震を起こさせないようにしている石の彫刻がありました。

ここの要石の地上部分はよく見ないとわからないような地味なものです。
説明書きによると、水戸黄門が7日間昼夜ぶっ通しで掘らせたが深すぎて底が確認できなかったそうです。

要石の説明書きです

767年に藤原氏は春日大社に「御分霊」を迎える際、鹿に乗せて運んだと書かれています。今現在奈良にたくさんいる鹿はここから運ばれていったことがわかります。

国譲り神話の中心人物で戦いの神である「武甕槌大神」の説明書きがありました。
「元々は鹿島の土着神で、海上交通の神として信仰されていた。ヤマト王権の東国進出の際に鹿島が重要な地になってきたこと、さらに、祭祀を司る中臣氏が鹿島を含む常総地方の出で、古くから鹿島神ことタケミカヅチを信奉していたことから、タケミカヅチがヤマト王権にとって重要な神とされることになった。平城京に春日大社(奈良県奈良市)が作られると、中臣氏は鹿島神を勧請し、一族の氏神とした。:ウィキペディア」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%B1%E3%83%9F%E3%82%AB%E3%83%85%E3%83%81

外の国から攻めてきた(侵略してきた)神々に対し最後まで戦った在来の神がまつられている「諏訪大社」の真東に「鹿島神宮」が位置する。また、真北には「戸隠神社」が位置するのは偶然か?
そして、大和の方角には外来系の神々の中でも最高神である天照大神が控えている。
最後まで抵抗した荒ぶる神を封じ込めるため大和政権は、完璧な布陣で押さえ込んでいることがわかる。
東に位置する鹿島の神は、外来神々の総大将である征夷大将軍といえる神。
北に位置する戸隠の神は、天照大神が岩戸に隠れたとき少し隙間が空いた岩戸を開き、天照大神をこの世に引きずり出した力持ちで有名な神。
そして南西の方角には最高神である太陽の神がにらみを利かす。
これでは在来の神が逃げ出して大和政権に災いを起こそうにも不可能であろう。
「天照大神の孫、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の降臨に先立ち、武甕槌命(たけみかづちのみこと)が、出雲を支配していた大国主命に国譲り、つまり出雲王朝の支配権を譲渡するように迫ったという。これに対して、大国主の長男である建御名方命が、国譲りに反対し、武甕槌命と相撲をしたが負けてしまった。そこで建御名方命は諏訪まで逃れ、その地で王国を築いたという。諏訪大社の起源は、この神話にあるといわれている:ウィキペディア」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%A6%E5%8E%9F%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%B9%B3%E5%AE%9A

おもしろ半分で「息栖神社」と「香取神宮」を直線で結んだ延長上に何があるか調べてみた。
そこにはなんと国譲り神話の中心人物である大国主神を奉ってある「大宮氷川神社」があることが判明した。
大国主命の封じ込めを意図したのか?

東国三社が二等辺直角三角形で出来ているということは・・・、その延長には何があるのか調べてみた。
その先には、「大前神社」が存在する。大前神社の祭神はなんと大国主神である。大国主命の封じ込めを意図したのか?
また、この地方には「鹿島神社」と「香取神社」が異様に多く存在する。
個人的な意見だが、太古の昔に外から新たに入ってきた渡来系侵略者(アマテラス系)と在来の民衆(オオクニヌシ系)の間にかなり激しい戦いがあった。その後平安時代に入り藤原一族が荘園を経営始めた際、日照りや疫病が蔓延したとき新たな住民は(オオクニヌシ系)のたたりが原因ではないか?と考えた。そこで、この地区で一番強力な戦いの神である鹿島の分霊をお祀りして悪霊封じを行ったのではないだろうか。
「大国主を祀る神社の代表は出雲大社(島根県出雲市)で、他に大神神社(奈良県桜井市)、気多大社(石川県羽咋市)、気多本宮(石川県七尾市)、大國魂神社(東京都府中市)、大前神社(栃木県真岡市)のほか、全国の出雲神社で祀られている。 また北海道神宮(北海道札幌市)をはじめ北海道内のいくつかの神社では、「開拓三神」として少彦名神と共に祀られている。:ウィキペディア」
http://www.oosakijinja.com/yuisyo.html

息栖神社はかつて下流部の日川と利根川の合流部にあったらしい。その後、何らかの原因(氾濫多発?)があり現在の場所に807年に移している。最初の場所の推定地と他の神社を結ぶと正三角形となる。
807年に現在の場所に移すとき、なぜ今の場所なのか?なぜ香取神宮の真東なのか?なぜ鹿島神宮の真南なのか?謎はますばかりです。

得意技を使って息栖神社の上空から二等辺三角形の向こうを覗いてみます。するとあるとがった山が見えてきます。この写真では良く見えないので望遠に切り替えてみます。

すると、加波山という三角形の山が見えてきました。(日光の女峰山が写真に写っているが実際の地表面からでは見えない)この山には何があるのでしょう?
調べてみると「加波山神社」があるようです。HPを調べてみると息栖神社が現在の場所に移った時期(807年)にいろんな動きがあったようです。
「HP:当社は、第十二代景行天皇の御代(約二千年前)日本武尊の御東征(現在の東北地方を平定)に当たり、加波山に登り、三神(天御中主神・日の神・月の神)を祭り、社を建て加波山天中宮が創建されたと伝ふ。
延暦20年(西暦800年)征夷大将軍、坂上田村麿の御東征に際しても当社に戦勝を祈願され、大同元年(西暦806年)に社殿を寄進された。弘仁5年(西暦809年)には、従五位下を朝廷より賜り、第五十二代嵯峨天皇より多数の御神宝が奉納されたが、現在は、天皇の御宸筆の掛軸しか残されていません。」
http://www.kabasan.or.jp/m1/index.html

今回最大の謎がこれです。
大きな地図で見る
<この場所は私有地で近づくことが出来ません。所有者に迷惑がかかるので現地立ち入りは絶対おやめください>
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国譲り神話のあらすじ
出雲の有名な国譲りは、高天原の神々が、オオクニヌシに葦原中つ国の支配権を譲るように迫り、ついに承諾させるというものです。国譲りは、もちろんあっさりとスムーズに行われたのではありません。
高天原から、最初は天穂日命(あまのほひのみこと)が、次には天稚彦(あまのわかひこ))が国譲りの交渉役に遣わされますが、どちらもオオクニヌシに従ってしまって、高天原に帰ってこない。そこで武甕槌神(たけみかつちのかみ)【鹿島神宮】と天鳥船神(あまのとりふねのかみ)【息栖神社】(『日本書紀』では武甕槌神と経津主神(ふつぬしのかみ)【香取神宮】)が遣わされ、稲佐の浜に剣を突き立てて国譲りを迫るというものです。
オオクニヌシは、ふたりの息子に意見を求めようとします。すると、釣りに出ていた事代主神(ことしろぬしのかみ)は国譲りに承諾しますが、もうひとりの息子、健御名方神(たけみなかたのかみ)は反対します。
そこで、健御名方神と武甕槌神の間で力競べが行われ、オオクニヌシの息子が敗れてしまいます。そのために、とうとう国譲りが実行されるのです。敗れた健御名方神は諏訪まで逃げ、その地に引き籠もって諏訪神社の祭神になったとされています。
いずれにしても、これは国譲りという説話になってはいますが、実際は、剣を突き刺して迫り、そのあげく力競べをするというように、武力で奪い取った色彩が強い。いわば、オオクニヌシが造りあげた国土を天孫族【漢字と鉄剣を持ち込んだ大陸系の部族】が武力で奪っているわけです。
この神社を訪ねたのは、昔から疑問に思っていたいろんな謎を直に感じてみたかったからです。
1.昔神宮と名のつく社(やしろ)が日本に3社存在(「伊勢神宮」「鹿島神宮」「香取神宮」)そのうちなんと2社が遠く大和から離れた関東に存在した。
2.東国三社の位置関係が直角二等辺三角形の位置関係にある。
http://www.kamisu-kanko.jp/power/index.html
3.今回訪ねた神社の周辺には変わった地名が多い。たとえば、潮来(いたこ)、行方(なめかた)など。
4.東国3社の神々は、天照大神と大国主命で有名な国譲り神話で登場する神
5.鹿島神宮は国譲り神話で最後まで抵抗した神がまつられている諏訪神社の真東の方角にある。
これらの不思議にどこまで迫れるか早速探検です。
まずは「香取神宮」を訪ねます。
祭神:経津主大神(ふつぬしのおおかみ)
大神は鹿島神宮の大神と一緒に共同し、この国に以前から住んでいた荒ぶる神々を平定したことで有名です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%99%E5%8F%96%E7%A5%9E%E5%AE%AE
歴史を感じさせる神社です。
境内の銀杏にはぎんなんがなっていました。
我が国国土開拓の大業を果たされた建国の大功神であると記されています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%8C%E6%B4%A5%E4%B8%BB%E7%A5%9E
香取神宮の正面です
門をくぐり右の方角を見たところです。
境内には正倉院のような建物がありました。きっと古くからの古文書などが納められているのでしょう。
入って右奥の角から本殿を見たところです。千木が垂直(縦)に切られているので、男の神がまつられていることがわかります。また、屋根の上の丸木の鰹木が9本と奇数になっているのでこの本数からも男神をまつってあることがわかります。
別の角度から本殿を見たところです。
日光の東照宮陽明門を感じさせる色彩豊かな作りです。
時の権力者が使用する五七の桐の家紋です。何か意味があると思いますが、両側の五つ花が外に傾いています。
この神社の参道にある石灯籠がかなりの数、崩れ落ちていました。修復にお金がかかるのでしょうが、痛々しい限りです。
「奧宮」「要石」の説明がありました。この地に地震を引き起こすナマズがいたので「要石」が押さえ込んでいるようです。最近「要石」の効力が弱まった為、石灯灯籠が倒れてしまったのか?ちなみに同じような要石がある鹿島神宮の石灯籠は一つも倒れていなかった。
言い伝えによると、地上に出ている部分は少しだが、かなり深くまで埋まっているようです。
奥宮にやってきました。
奥宮の祭神は女の神?先ほど立っていた説明書きには経津主大神(男の神)となっていましたが、なぜ男の神が女性用の社殿に入っているのか大きな謎です。
2社目の訪問は「息栖神社」です。御祭神は、鳥之石楠船神(とりのいわくすふねのかみ)で、日本神話に登場する神であり、また、神が乗る船の名前です。別名を天鳥船(あめのとりふね)といいます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%AF%E6%A0%96%E7%A5%9E%E7%A4%BE
「香取神宮」とは違い、こじんまりとした神社です。
神社の由緒が書かれています。
本殿は新しく、コンクリート造りでした。
参道の入り口は利根川付近です。
不思議な井戸が二つありました。
神社の入り口は川(船着き場)と面しています。自由に動き回れる船の神がご神体ということがよくわかります。
最後に訪れたのは三社の中で最も有名な「鹿島神宮」です。
人も多く、駐車場は有料です。境内の規模も桁外れに大きいものです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E5%B3%B6%E7%A5%9E%E5%AE%AE
常陸国一宮である「鹿島神宮」はお金もかかっています。
高い壁越しに本殿を見たところです。千木は縦切りなので男の神様であることがわかります。
お金がかかっている神社には玉砂利が使用されているところが多いが、ここの参道は質素に砂舗装です。
「君が代」で有名なさざれ石がありました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%95%E3%81%96%E3%82%8C%E7%9F%B3
しばらく歩いて奥宮に到着です。
奥宮の奧にはきれいな池がありました。
大神がナマズの頭を押さえつけて地震を起こさせないようにしている石の彫刻がありました。
ここの要石の地上部分はよく見ないとわからないような地味なものです。
説明書きによると、水戸黄門が7日間昼夜ぶっ通しで掘らせたが深すぎて底が確認できなかったそうです。
要石の説明書きです
767年に藤原氏は春日大社に「御分霊」を迎える際、鹿に乗せて運んだと書かれています。今現在奈良にたくさんいる鹿はここから運ばれていったことがわかります。
国譲り神話の中心人物で戦いの神である「武甕槌大神」の説明書きがありました。
「元々は鹿島の土着神で、海上交通の神として信仰されていた。ヤマト王権の東国進出の際に鹿島が重要な地になってきたこと、さらに、祭祀を司る中臣氏が鹿島を含む常総地方の出で、古くから鹿島神ことタケミカヅチを信奉していたことから、タケミカヅチがヤマト王権にとって重要な神とされることになった。平城京に春日大社(奈良県奈良市)が作られると、中臣氏は鹿島神を勧請し、一族の氏神とした。:ウィキペディア」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%B1%E3%83%9F%E3%82%AB%E3%83%85%E3%83%81

外の国から攻めてきた(侵略してきた)神々に対し最後まで戦った在来の神がまつられている「諏訪大社」の真東に「鹿島神宮」が位置する。また、真北には「戸隠神社」が位置するのは偶然か?
そして、大和の方角には外来系の神々の中でも最高神である天照大神が控えている。
最後まで抵抗した荒ぶる神を封じ込めるため大和政権は、完璧な布陣で押さえ込んでいることがわかる。
東に位置する鹿島の神は、外来神々の総大将である征夷大将軍といえる神。
北に位置する戸隠の神は、天照大神が岩戸に隠れたとき少し隙間が空いた岩戸を開き、天照大神をこの世に引きずり出した力持ちで有名な神。
そして南西の方角には最高神である太陽の神がにらみを利かす。
これでは在来の神が逃げ出して大和政権に災いを起こそうにも不可能であろう。
「天照大神の孫、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の降臨に先立ち、武甕槌命(たけみかづちのみこと)が、出雲を支配していた大国主命に国譲り、つまり出雲王朝の支配権を譲渡するように迫ったという。これに対して、大国主の長男である建御名方命が、国譲りに反対し、武甕槌命と相撲をしたが負けてしまった。そこで建御名方命は諏訪まで逃れ、その地で王国を築いたという。諏訪大社の起源は、この神話にあるといわれている:ウィキペディア」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%A6%E5%8E%9F%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%B9%B3%E5%AE%9A

おもしろ半分で「息栖神社」と「香取神宮」を直線で結んだ延長上に何があるか調べてみた。
そこにはなんと国譲り神話の中心人物である大国主神を奉ってある「大宮氷川神社」があることが判明した。
大国主命の封じ込めを意図したのか?

東国三社が二等辺直角三角形で出来ているということは・・・、その延長には何があるのか調べてみた。
その先には、「大前神社」が存在する。大前神社の祭神はなんと大国主神である。大国主命の封じ込めを意図したのか?
また、この地方には「鹿島神社」と「香取神社」が異様に多く存在する。
個人的な意見だが、太古の昔に外から新たに入ってきた渡来系侵略者(アマテラス系)と在来の民衆(オオクニヌシ系)の間にかなり激しい戦いがあった。その後平安時代に入り藤原一族が荘園を経営始めた際、日照りや疫病が蔓延したとき新たな住民は(オオクニヌシ系)のたたりが原因ではないか?と考えた。そこで、この地区で一番強力な戦いの神である鹿島の分霊をお祀りして悪霊封じを行ったのではないだろうか。
「大国主を祀る神社の代表は出雲大社(島根県出雲市)で、他に大神神社(奈良県桜井市)、気多大社(石川県羽咋市)、気多本宮(石川県七尾市)、大國魂神社(東京都府中市)、大前神社(栃木県真岡市)のほか、全国の出雲神社で祀られている。 また北海道神宮(北海道札幌市)をはじめ北海道内のいくつかの神社では、「開拓三神」として少彦名神と共に祀られている。:ウィキペディア」
http://www.oosakijinja.com/yuisyo.html

息栖神社はかつて下流部の日川と利根川の合流部にあったらしい。その後、何らかの原因(氾濫多発?)があり現在の場所に807年に移している。最初の場所の推定地と他の神社を結ぶと正三角形となる。
807年に現在の場所に移すとき、なぜ今の場所なのか?なぜ香取神宮の真東なのか?なぜ鹿島神宮の真南なのか?謎はますばかりです。

得意技を使って息栖神社の上空から二等辺三角形の向こうを覗いてみます。するとあるとがった山が見えてきます。この写真では良く見えないので望遠に切り替えてみます。

すると、加波山という三角形の山が見えてきました。(日光の女峰山が写真に写っているが実際の地表面からでは見えない)この山には何があるのでしょう?
調べてみると「加波山神社」があるようです。HPを調べてみると息栖神社が現在の場所に移った時期(807年)にいろんな動きがあったようです。
「HP:当社は、第十二代景行天皇の御代(約二千年前)日本武尊の御東征(現在の東北地方を平定)に当たり、加波山に登り、三神(天御中主神・日の神・月の神)を祭り、社を建て加波山天中宮が創建されたと伝ふ。
延暦20年(西暦800年)征夷大将軍、坂上田村麿の御東征に際しても当社に戦勝を祈願され、大同元年(西暦806年)に社殿を寄進された。弘仁5年(西暦809年)には、従五位下を朝廷より賜り、第五十二代嵯峨天皇より多数の御神宝が奉納されたが、現在は、天皇の御宸筆の掛軸しか残されていません。」
http://www.kabasan.or.jp/m1/index.html

今回最大の謎がこれです。
大きな地図で見る
<この場所は私有地で近づくことが出来ません。所有者に迷惑がかかるので現地立ち入りは絶対おやめください>
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国譲り神話のあらすじ
出雲の有名な国譲りは、高天原の神々が、オオクニヌシに葦原中つ国の支配権を譲るように迫り、ついに承諾させるというものです。国譲りは、もちろんあっさりとスムーズに行われたのではありません。
高天原から、最初は天穂日命(あまのほひのみこと)が、次には天稚彦(あまのわかひこ))が国譲りの交渉役に遣わされますが、どちらもオオクニヌシに従ってしまって、高天原に帰ってこない。そこで武甕槌神(たけみかつちのかみ)【鹿島神宮】と天鳥船神(あまのとりふねのかみ)【息栖神社】(『日本書紀』では武甕槌神と経津主神(ふつぬしのかみ)【香取神宮】)が遣わされ、稲佐の浜に剣を突き立てて国譲りを迫るというものです。
オオクニヌシは、ふたりの息子に意見を求めようとします。すると、釣りに出ていた事代主神(ことしろぬしのかみ)は国譲りに承諾しますが、もうひとりの息子、健御名方神(たけみなかたのかみ)は反対します。
そこで、健御名方神と武甕槌神の間で力競べが行われ、オオクニヌシの息子が敗れてしまいます。そのために、とうとう国譲りが実行されるのです。敗れた健御名方神は諏訪まで逃げ、その地に引き籠もって諏訪神社の祭神になったとされています。
いずれにしても、これは国譲りという説話になってはいますが、実際は、剣を突き刺して迫り、そのあげく力競べをするというように、武力で奪い取った色彩が強い。いわば、オオクニヌシが造りあげた国土を天孫族【漢字と鉄剣を持ち込んだ大陸系の部族】が武力で奪っているわけです。
甲斐駒ヶ岳、2967m 2011/09/18 [百名山]
当初は9月2日(金)に有給休暇をとり、北沢峠にテントを張って「甲斐駒ヶ岳」と「仙丈ヶ岳」に登る予定でしたが、台風のため延期となっていました。そこで、当初の計画を17日(土)から3日間に決定し再準備を行っていましたが、またしても台風が近づいてきました。悩んだ末、天気予報を良いように解釈(台風は遅い)し決行することにしました。
今回の計画は、17日(土)10:05 仙流荘のバス停発11:00頃北沢峠着、その日はテントを設営し翌日に備える。(今日の予定はテント設営だけなので 12:45発でも14:10発でも問題なかったが、テントを張る場所が無くなることと、連休の中央道の大渋滞を避けるため早めのバスを利用することにした。実際、テントを張った後雨が降り出したことと、この日はテント設営が多く、遅く来た人は張る場所に制約を受けていた。)
翌日は6時頃テントを出発して甲斐駒ヶ岳を登って3時頃帰ってくる。翌々日は、5時頃テントを出発して仙丈ヶ岳に登り、昼頃帰ってきて13:00のバスに乗る。というものでしたが実際は・・・・

今回は、テント場から左回りに仙水小屋を通過し、仙水峠をまわり駒津峰に登り、駒ヶ岳をめざす。その後、双児山を通り北沢峠を経由してテント場に戻る。

累積標高は924m、沿面距離は7.2km、推定時間5時間3分の山歩きとなりました。今回は、仙水峠から駒津峰と、帰りの双児山から北沢峠の間がかなりの急斜面でした。データ以上に時間がかかる山登りです。

テント場から左回りに進むルートをとりました。

17日(土)10:00頃の仙流荘のバス停の様子です。この日は、乗車予定客が多いと言うことで10:00頃登バス停発の臨時便が出ました。

この時刻表を見ると※印は土・休日運行、▲は※以外(土・休日)となっています。ということは、帰りは休日なので15:00のバスは運休となります。と理解しましたが、・・・・

テント泊の場合使用しているカリマーのザックです。50L+10L=60Lのザックは荷物の量に応じて上部の雨蓋が上に伸びます(+10L)今回は16キログラムの荷物を積みましたが多少余裕がありました。

臨時便で出発です。一番後の座席で(荷物は隣の座席)ゆったりと乗車できました。途中運転手さんがいろんな話を聞かせてくれました。たとえば、外来樹木が増えて困っているとか、国立公園内の林道開発についてとか、標高に応じて「白樺」帯から「ダケカンバ」帯に移る話とか、移動をする蝶の話とか結構為になる話を聞かせてもらいました。

約1時間をかけて標高1200mを登ります。昔は北沢峠まで歩いていたそうですが、今は1300円を出すと、歩かないで標高2020mまで連れて行ってくれます。ありがたいものです。

約1時間をかけて北沢峠に到着です。これから、テント場まで歩いて移動します。この写真は峠の先、山梨県側にすこし進んだところから写したものです。奥が長野県側、右方向に甲斐駒ヶ岳、左方向に仙丈ヶ岳という位置関係になります。

バス停からテント場に向かう途中に冷たくておいしい水が出ていました。ここでは南アルプスの天然水がただで飲むことが出来ます。

今日の宿泊地に到着です。すでに50基近いテントが張られています。早速2泊分(500×2日=1000円)の料金を支払ってテント設営にかかります。

今回持ってきた16キロの荷物です。今回は登山口(バス停)から荷揚げすることが無くテントを設営出来るので、PSP(プレイステーションポータブル)や、重くてかさばる食材などを持ってきました。仮に、縦走などのためテントを担いで移動する場合は自分の体力を考えて3キロぐらい減量する必要があります。

湿っぽいことが理由と思われる良い場所が空いていました。今回はテント下に敷くグランドシートを持ってきたので、他のテントに比べて湿気はOKです。

久しぶりのテント設営ですが最近のテントは単純でわかりやすく悩まないで設営できます。この写真はポールを袋から出して組み立てているところです。

ポールをテントに通したところです。

ポールを四隅に固定すると、立体的なテントの形になります。

フライシートをかぶせればテントのできあがり。

落ち着いた良い場所です。

今回持ってきた2泊(6食分)用の食料です。今回は荷物を持ち上げる必要がなかったため、普通は重くて山には使わない食料も含まれています。しかし、実際にはほとんど持ち帰ることとなってしまいました。

早速昼ご飯です。チキンラーメンと白ご飯をそのまま煮込んだ「ネコマンマ」です。下界ではほとんど食べることのない超高級料理です。

3時半頃になると麓からガスが上がってきて雨が降り始めました。速いバスで来た作戦が成功です。これから後にテント場についた人は雨の中テントを設営することになりました。

初日の夕食はチーズカレーです。今日は昼食後体を動かしていないので、あまり食欲はありませんでしたが、明日の山登りのため頑張って食べます。

18日(日)4:30 朝食は紅鮭がゆと朝バナナです。

6:10 テントを設営したまま駒ヶ岳に向けて出発です。天候はどんよりしていますこの時点では晴れるかどうかは不明です。

渓流沿いのごろごろした登山道を上ります。

6:50 仙水小屋を通過(ここに来る前違う沢に登ってしまい、大きく時間をロスしてしまいました)

7:00 天空が開けてきました。今日は日焼け止めが必要なほど大変天気が良いようです。

登山道から後ろを振り返ると明日登る予定の仙丈ヶ岳(写真は小仙丈ヶ岳)がきれいに見えてきました。

7:30 仙水峠に到着です。ここから、丸い摩利支天と駒ヶ岳が見えてきました。

この峠を越えるとかなりの急登が始まります。データを見ると1000mで450mも登る計算になります。

急登の様子がわかるように、先行者にはモデルになってもらいます。

しばらく歩くと東の方角に、6月末に登った鳳凰三山が雲海の上に見えてきました。地蔵岳のオベリスクもはっきりと見えます。

南の方角に南アルプスの女王と言われている仙丈ヶ岳が小仙丈ヶ岳の奧に見えてきました。

今から登頂予定の駒ヶ岳がすごい迫力でそびえ立っています。言葉をなくすほど、すばらしい山容です。

南の方角に北岳が見えてきました。

風景がすばらしく、写真を撮るのに一生懸命でなかなか先に進みません。白い雲、青い空、緑の樹木すばらしいコントラストです。この写真には日本1番の標高を持つ富士山、二番の北岳、四番の間ノ岳がきれいに写っています。

西の方角には中央アルプスが姿を現しました。8月に登った木曽駒ヶ岳や、昨年に登った空木岳が見えます。

富士山と鳳凰三山がきれいに見えます。6月の末、氷が舞い冬山のような天候の中、薬師岳で写真を撮ったのを思い出します。

南の方角に南アルプスの盟主たちが並んでいます。
日本第二位の北岳、第四位の間ノ岳、第六位の悪沢岳、第七位の赤石岳(塩見岳と並んでいるがわかりにくい)、十六位の塩見岳が一同に見えます。

9:10 3時間かけて駒津峰に到着です。天気も良く急ぐ旅でもないので結構ゆっくりします。後方にそびえる駒ヶ岳はすごい迫力で、神々しさを感じます。

北西の方角は鋸岳の後方に北アルプスの山容が見えます。しかし、雲が多く山名を特定することは出来ませんでした。

鳳凰三山の観音岳と富士山が背比べをしています。

9:30 十分休憩した後駒ヶ岳に向かって出発です。この頃になると、1便のバスで来た人が加わり狭い登山道が混雑してきました。

やせ尾根の岩場を進みます。すれ違いの時は結構神経を使います。

六万石を越えてどんどん進みます。

10:00少し前それは急に起こりました。
場所は、直登ルートと巻き道ルートの交差点付近です。当初は、ストックをたたむのが面倒くさいので巻き道ルートを進む予定でした。そして、巻き道の交差点にさしかかったとき、ちょうどその時登ってくる人が多く、しばらく待っていましたが、ほんの少しの時間が待てなくなり急遽直登ルートに方向転換です。そして、少し登ったところでちょうど右側から下りてくる人とすれ違うことになりました。その時、右側を開けるため、左下にあった結構大きめの石に全体重をかけたところ、体重をかけた石が滑り落ちてしまいました。そこで、体のバランスを失ってちょうど目の前にあった壁に顔から激突してしまったのです。
しばらく脳しんとう気味でふらふらするし、左目の上をめがねのレンズで切って血はぽたぽた落ちてくるし、こうなったら戦意喪失です。
幸いなことには、タオルで押さえてしばらく上を向いて寝ていると血も収まり、目を開けることもでき、予備のめがねを持ってきていたため自由に行動は出来ました。行動は出来ましたが、両肘の怪我と左目の周辺がずきずき痛んで登山の継続はあきらめざるを得ません。すごすごと退散開始です。


13:45頃北沢峠まで下りてきました。
帰りのバスの時間に関して自分の理解では、▲印の15:00と通常の16:00があり、今日は休日なので16:00まで待つ必要があるなということでした。しかし念のため、臨時便でもないかなと係員に帰りのバスの時間を聞いたところ「今日は休日なので15:00に出発です」とのこと。??なので少し突っ込んだ質問「▲印は休日は出ないと書いてある」といったところ、かえってきた言葉は「休日は人も多く稼ぎ時なので※▲の制約を受けず全バスが出るのは当然です。3時に出なかったらお客さん怒るでしょう?」とのこと??この地区の日本語はどうなっているのでしょう?
15:00が出るとなったらすぐにテントを撤収してここまで帰ってくる必要があります。ここからテント場まで15分、テントの撤収に20分、帰りに20分と考えるとぎりぎりです。

あと1日分の料金を支払っていますが、大急ぎでテントの撤収です。もっとゆっくりしたい気分ではありますが大急ぎでテントをたたみます。
そのかいもあって何とかバスに乗ることが出来ましたが、16キロのザックは膝の上でかつ補助席という身動きできない過酷な状況で下山です。その約50分の間、目の上からは血が滴り出てきて悲惨な状態ですが、身動きできないため濡れティッシュで拭く事も出来ません。
左隣に体を接して座っていた女の人は、目から流れ続ける血を見てさぞびっくりしたことでしょう。

<後記>
今回いろいろなことを考える機会となりました。
・いままで先人たちが神がすむ山として敬ってあがめていた山に対して失礼な考えを持ってはいなかったか?
・登らせて頂いているという気持ちを失って、遊び気分で一山ゲットという遊び心は持っていなかったかどうか?
・岩場ではストックをたたむという基本を守っていたか?
・最初決めたことはいらいらしようがじっと我慢する忍耐を持ち合わせたか?
この山の入り口でこんな怪我をしたことについて「おまえのような気分でこの山に立ち入るべからず」とはっきり言って罰(バチ)が当たったと感じたのは事実です。よって、今後この山に近づくのはやめることにしました。(次この忠告に背いて近づいたら大変なことが起きる予感がする)しかし、百名山を目指していることは継続しているので、次の考え方によりこの山は登ったことにします。
・駒ヶ岳に登るため計画を行い準備して山に登ったのは事実(登り切っていないだけ)
・駒ヶ岳の山容に触れて山のすばらしさは味わった
・浅間山も草津白根山も頂上以外の部分に登ったことで登頂と見なしている。(頂上に立つことだけが山登りではない)
・所詮自分が登ったと実感することが大事であって、他人がとやかく言う筋合いにない。
よって、自分としては完登がすべてとは考えず、その場所に行って山容を楽しんだと言い切れる場合、登ったことにします。
最後に、そこにある石の壁に顔をぶつけただけで人間は大変なことになります。つくづく自然に対して人間は非力であると実感しました。非力であるが故に、自然に対しては畏怖と尊敬を持って接する必要がある、決してそのことは忘れてはいけないと強く感じました。
今回の計画は、17日(土)10:05 仙流荘のバス停発11:00頃北沢峠着、その日はテントを設営し翌日に備える。(今日の予定はテント設営だけなので 12:45発でも14:10発でも問題なかったが、テントを張る場所が無くなることと、連休の中央道の大渋滞を避けるため早めのバスを利用することにした。実際、テントを張った後雨が降り出したことと、この日はテント設営が多く、遅く来た人は張る場所に制約を受けていた。)
翌日は6時頃テントを出発して甲斐駒ヶ岳を登って3時頃帰ってくる。翌々日は、5時頃テントを出発して仙丈ヶ岳に登り、昼頃帰ってきて13:00のバスに乗る。というものでしたが実際は・・・・

今回は、テント場から左回りに仙水小屋を通過し、仙水峠をまわり駒津峰に登り、駒ヶ岳をめざす。その後、双児山を通り北沢峠を経由してテント場に戻る。

累積標高は924m、沿面距離は7.2km、推定時間5時間3分の山歩きとなりました。今回は、仙水峠から駒津峰と、帰りの双児山から北沢峠の間がかなりの急斜面でした。データ以上に時間がかかる山登りです。

テント場から左回りに進むルートをとりました。
17日(土)10:00頃の仙流荘のバス停の様子です。この日は、乗車予定客が多いと言うことで10:00頃登バス停発の臨時便が出ました。
この時刻表を見ると※印は土・休日運行、▲は※以外(土・休日)となっています。ということは、帰りは休日なので15:00のバスは運休となります。と理解しましたが、・・・・
テント泊の場合使用しているカリマーのザックです。50L+10L=60Lのザックは荷物の量に応じて上部の雨蓋が上に伸びます(+10L)今回は16キログラムの荷物を積みましたが多少余裕がありました。
臨時便で出発です。一番後の座席で(荷物は隣の座席)ゆったりと乗車できました。途中運転手さんがいろんな話を聞かせてくれました。たとえば、外来樹木が増えて困っているとか、国立公園内の林道開発についてとか、標高に応じて「白樺」帯から「ダケカンバ」帯に移る話とか、移動をする蝶の話とか結構為になる話を聞かせてもらいました。
約1時間をかけて標高1200mを登ります。昔は北沢峠まで歩いていたそうですが、今は1300円を出すと、歩かないで標高2020mまで連れて行ってくれます。ありがたいものです。
約1時間をかけて北沢峠に到着です。これから、テント場まで歩いて移動します。この写真は峠の先、山梨県側にすこし進んだところから写したものです。奥が長野県側、右方向に甲斐駒ヶ岳、左方向に仙丈ヶ岳という位置関係になります。
バス停からテント場に向かう途中に冷たくておいしい水が出ていました。ここでは南アルプスの天然水がただで飲むことが出来ます。
今日の宿泊地に到着です。すでに50基近いテントが張られています。早速2泊分(500×2日=1000円)の料金を支払ってテント設営にかかります。
今回持ってきた16キロの荷物です。今回は登山口(バス停)から荷揚げすることが無くテントを設営出来るので、PSP(プレイステーションポータブル)や、重くてかさばる食材などを持ってきました。仮に、縦走などのためテントを担いで移動する場合は自分の体力を考えて3キロぐらい減量する必要があります。
湿っぽいことが理由と思われる良い場所が空いていました。今回はテント下に敷くグランドシートを持ってきたので、他のテントに比べて湿気はOKです。
久しぶりのテント設営ですが最近のテントは単純でわかりやすく悩まないで設営できます。この写真はポールを袋から出して組み立てているところです。
ポールをテントに通したところです。
ポールを四隅に固定すると、立体的なテントの形になります。
フライシートをかぶせればテントのできあがり。
落ち着いた良い場所です。
今回持ってきた2泊(6食分)用の食料です。今回は荷物を持ち上げる必要がなかったため、普通は重くて山には使わない食料も含まれています。しかし、実際にはほとんど持ち帰ることとなってしまいました。
早速昼ご飯です。チキンラーメンと白ご飯をそのまま煮込んだ「ネコマンマ」です。下界ではほとんど食べることのない超高級料理です。
3時半頃になると麓からガスが上がってきて雨が降り始めました。速いバスで来た作戦が成功です。これから後にテント場についた人は雨の中テントを設営することになりました。
初日の夕食はチーズカレーです。今日は昼食後体を動かしていないので、あまり食欲はありませんでしたが、明日の山登りのため頑張って食べます。
18日(日)4:30 朝食は紅鮭がゆと朝バナナです。
6:10 テントを設営したまま駒ヶ岳に向けて出発です。天候はどんよりしていますこの時点では晴れるかどうかは不明です。
渓流沿いのごろごろした登山道を上ります。
6:50 仙水小屋を通過(ここに来る前違う沢に登ってしまい、大きく時間をロスしてしまいました)
7:00 天空が開けてきました。今日は日焼け止めが必要なほど大変天気が良いようです。
登山道から後ろを振り返ると明日登る予定の仙丈ヶ岳(写真は小仙丈ヶ岳)がきれいに見えてきました。
7:30 仙水峠に到着です。ここから、丸い摩利支天と駒ヶ岳が見えてきました。
この峠を越えるとかなりの急登が始まります。データを見ると1000mで450mも登る計算になります。
急登の様子がわかるように、先行者にはモデルになってもらいます。
しばらく歩くと東の方角に、6月末に登った鳳凰三山が雲海の上に見えてきました。地蔵岳のオベリスクもはっきりと見えます。
南の方角に南アルプスの女王と言われている仙丈ヶ岳が小仙丈ヶ岳の奧に見えてきました。
今から登頂予定の駒ヶ岳がすごい迫力でそびえ立っています。言葉をなくすほど、すばらしい山容です。
南の方角に北岳が見えてきました。
風景がすばらしく、写真を撮るのに一生懸命でなかなか先に進みません。白い雲、青い空、緑の樹木すばらしいコントラストです。この写真には日本1番の標高を持つ富士山、二番の北岳、四番の間ノ岳がきれいに写っています。
西の方角には中央アルプスが姿を現しました。8月に登った木曽駒ヶ岳や、昨年に登った空木岳が見えます。
富士山と鳳凰三山がきれいに見えます。6月の末、氷が舞い冬山のような天候の中、薬師岳で写真を撮ったのを思い出します。
南の方角に南アルプスの盟主たちが並んでいます。
日本第二位の北岳、第四位の間ノ岳、第六位の悪沢岳、第七位の赤石岳(塩見岳と並んでいるがわかりにくい)、十六位の塩見岳が一同に見えます。
9:10 3時間かけて駒津峰に到着です。天気も良く急ぐ旅でもないので結構ゆっくりします。後方にそびえる駒ヶ岳はすごい迫力で、神々しさを感じます。
北西の方角は鋸岳の後方に北アルプスの山容が見えます。しかし、雲が多く山名を特定することは出来ませんでした。
鳳凰三山の観音岳と富士山が背比べをしています。
9:30 十分休憩した後駒ヶ岳に向かって出発です。この頃になると、1便のバスで来た人が加わり狭い登山道が混雑してきました。
やせ尾根の岩場を進みます。すれ違いの時は結構神経を使います。
六万石を越えてどんどん進みます。
10:00少し前それは急に起こりました。
場所は、直登ルートと巻き道ルートの交差点付近です。当初は、ストックをたたむのが面倒くさいので巻き道ルートを進む予定でした。そして、巻き道の交差点にさしかかったとき、ちょうどその時登ってくる人が多く、しばらく待っていましたが、ほんの少しの時間が待てなくなり急遽直登ルートに方向転換です。そして、少し登ったところでちょうど右側から下りてくる人とすれ違うことになりました。その時、右側を開けるため、左下にあった結構大きめの石に全体重をかけたところ、体重をかけた石が滑り落ちてしまいました。そこで、体のバランスを失ってちょうど目の前にあった壁に顔から激突してしまったのです。
しばらく脳しんとう気味でふらふらするし、左目の上をめがねのレンズで切って血はぽたぽた落ちてくるし、こうなったら戦意喪失です。
幸いなことには、タオルで押さえてしばらく上を向いて寝ていると血も収まり、目を開けることもでき、予備のめがねを持ってきていたため自由に行動は出来ました。行動は出来ましたが、両肘の怪我と左目の周辺がずきずき痛んで登山の継続はあきらめざるを得ません。すごすごと退散開始です。

13:45頃北沢峠まで下りてきました。
帰りのバスの時間に関して自分の理解では、▲印の15:00と通常の16:00があり、今日は休日なので16:00まで待つ必要があるなということでした。しかし念のため、臨時便でもないかなと係員に帰りのバスの時間を聞いたところ「今日は休日なので15:00に出発です」とのこと。??なので少し突っ込んだ質問「▲印は休日は出ないと書いてある」といったところ、かえってきた言葉は「休日は人も多く稼ぎ時なので※▲の制約を受けず全バスが出るのは当然です。3時に出なかったらお客さん怒るでしょう?」とのこと??この地区の日本語はどうなっているのでしょう?
15:00が出るとなったらすぐにテントを撤収してここまで帰ってくる必要があります。ここからテント場まで15分、テントの撤収に20分、帰りに20分と考えるとぎりぎりです。
あと1日分の料金を支払っていますが、大急ぎでテントの撤収です。もっとゆっくりしたい気分ではありますが大急ぎでテントをたたみます。
そのかいもあって何とかバスに乗ることが出来ましたが、16キロのザックは膝の上でかつ補助席という身動きできない過酷な状況で下山です。その約50分の間、目の上からは血が滴り出てきて悲惨な状態ですが、身動きできないため濡れティッシュで拭く事も出来ません。
左隣に体を接して座っていた女の人は、目から流れ続ける血を見てさぞびっくりしたことでしょう。
<後記>
今回いろいろなことを考える機会となりました。
・いままで先人たちが神がすむ山として敬ってあがめていた山に対して失礼な考えを持ってはいなかったか?
・登らせて頂いているという気持ちを失って、遊び気分で一山ゲットという遊び心は持っていなかったかどうか?
・岩場ではストックをたたむという基本を守っていたか?
・最初決めたことはいらいらしようがじっと我慢する忍耐を持ち合わせたか?
この山の入り口でこんな怪我をしたことについて「おまえのような気分でこの山に立ち入るべからず」とはっきり言って罰(バチ)が当たったと感じたのは事実です。よって、今後この山に近づくのはやめることにしました。(次この忠告に背いて近づいたら大変なことが起きる予感がする)しかし、百名山を目指していることは継続しているので、次の考え方によりこの山は登ったことにします。
・駒ヶ岳に登るため計画を行い準備して山に登ったのは事実(登り切っていないだけ)
・駒ヶ岳の山容に触れて山のすばらしさは味わった
・浅間山も草津白根山も頂上以外の部分に登ったことで登頂と見なしている。(頂上に立つことだけが山登りではない)
・所詮自分が登ったと実感することが大事であって、他人がとやかく言う筋合いにない。
よって、自分としては完登がすべてとは考えず、その場所に行って山容を楽しんだと言い切れる場合、登ったことにします。
最後に、そこにある石の壁に顔をぶつけただけで人間は大変なことになります。つくづく自然に対して人間は非力であると実感しました。非力であるが故に、自然に対しては畏怖と尊敬を持って接する必要がある、決してそのことは忘れてはいけないと強く感じました。
印象に残った食事【平成23年8月】 [食べ歩き]
平成23年8月17日 広島県江田島市沖美町の「坪希」さん
久しぶりに印象に残った食事のレポートです。
今回食事を堪能した店は、瀬戸内海の新鮮な海産物を腹一杯食べきれないほど食べさせてくれるすばらしい店です。今までに全国でおいしい魚介類を食べさせる店を数多く食べましたが、個人的(2回以上実際に利用した店舗に限る)なランキングではベスト3に入ります。ちなみに「坪希」以外の店は、長崎の茂木にある「二見」、宇和島の天赦園に接した「天赦園さがの 」です。

前菜の品々です。

イカの名前はわかりません。後からゲソが焼かれて再登場してきます。

今日は見事な巨大オコゼと大きな伊勢エビが登場です。伊勢エビはまだ生きており活発にヒゲを振り回しています。そのほかに、新鮮なシマアジと鯛も添えられていましたが完全にオコゼと伊勢エビに迫力で負けています。

新鮮な伊勢エビのアップ写真です。

巨大なオコゼのアップ写真です。食感はぷりっと弾力があり、かめばほのかに甘みが感じられる非常に上品な味がします。

アワビと白身魚の焼き物(ホワイトソースのようなものがかかっていたが詳細は不明)ですが、ガーリックとバターが利いた香ばしい味がしました。
このほかにも写真を撮っていませんが、「車エビの踊り食い(頭は後から揚げられて再登場)」、コーンポタージュのような食感がする「グリーンピース(枝豆?)のスープ」、食後にアイスとフルーツも出てきました。

先ほどの伊勢エビが味噌汁に入って再登場です。エビの味噌が利いた大変おいしい味噌汁です。

おなかがいっぱいで食べることが出来ませんでしたが、「鯛の釜飯」もおいしそうでした。
<感想>
この店は瀬戸内海の能美島(江田島と陸続き)にあります。ここには、明治時代に東京の築地から移転してきた「海軍兵学校」がありました。(現在は海上自衛隊の幹部候補生学校や第一術科学校)その関係から、東京から海軍や政府の偉いさんが島に来ることが多かったと想定できます。その時に利用していた歴史があるため、こんな立派なお店が田舎にあるのかなと勝手に想像しています。
久しぶりに印象に残った食事のレポートです。
今回食事を堪能した店は、瀬戸内海の新鮮な海産物を腹一杯食べきれないほど食べさせてくれるすばらしい店です。今までに全国でおいしい魚介類を食べさせる店を数多く食べましたが、個人的(2回以上実際に利用した店舗に限る)なランキングではベスト3に入ります。ちなみに「坪希」以外の店は、長崎の茂木にある「二見」、宇和島の天赦園に接した「天赦園さがの 」です。
前菜の品々です。

イカの名前はわかりません。後からゲソが焼かれて再登場してきます。
今日は見事な巨大オコゼと大きな伊勢エビが登場です。伊勢エビはまだ生きており活発にヒゲを振り回しています。そのほかに、新鮮なシマアジと鯛も添えられていましたが完全にオコゼと伊勢エビに迫力で負けています。
新鮮な伊勢エビのアップ写真です。
巨大なオコゼのアップ写真です。食感はぷりっと弾力があり、かめばほのかに甘みが感じられる非常に上品な味がします。
アワビと白身魚の焼き物(ホワイトソースのようなものがかかっていたが詳細は不明)ですが、ガーリックとバターが利いた香ばしい味がしました。
このほかにも写真を撮っていませんが、「車エビの踊り食い(頭は後から揚げられて再登場)」、コーンポタージュのような食感がする「グリーンピース(枝豆?)のスープ」、食後にアイスとフルーツも出てきました。
先ほどの伊勢エビが味噌汁に入って再登場です。エビの味噌が利いた大変おいしい味噌汁です。
おなかがいっぱいで食べることが出来ませんでしたが、「鯛の釜飯」もおいしそうでした。
<感想>
この店は瀬戸内海の能美島(江田島と陸続き)にあります。ここには、明治時代に東京の築地から移転してきた「海軍兵学校」がありました。(現在は海上自衛隊の幹部候補生学校や第一術科学校)その関係から、東京から海軍や政府の偉いさんが島に来ることが多かったと想定できます。その時に利用していた歴史があるため、こんな立派なお店が田舎にあるのかなと勝手に想像しています。
火打山、2462m 2011/08/08 [百名山]
今日は黒沢池ヒュッテから始まります。
朝4時に起床し4時半から朝食です。ここの朝食は名物のクレープです。ジャムを挟んで食べますがそんなにたくさん食べられるものではありません。その分コーヒーをたくさん飲みました。
火打山は100名山のうち41目の山となります。

黒沢池ヒュッテをスタートして高谷池(コウヤイケ)と天狗の庭を経由して火打山に登ります。登頂後は、高谷池、富士見平を経由して駐車場まで帰ります。

累積標高は621m、沿面距離は12.67km、推定時間5時間26分の昨日とは打って変わってお手軽な山歩きです。
火打山と妙高山を一泊して登る場合最初に火打山に登る人がほとんどです。この理由はようやくわかりました。これからこの両山を登る予定がある人は火打山を最初に登るようにしてください。こうしないと1日目がきつすぎ、2日目が楽すぎというバランスの悪い二日間となります。これからは言い訳のようになりますが、今回妙高山に先に登ることになったのは、宿泊地を黒沢池ヒュッテに泊まることを決めたからです。しかし、黒沢池ヒュッテに泊まる際、火打山を先に登ってもいっこうに問題がありませんでした。いろいろ考えて思慮が足りませんでした。


4時51分ごろ八角形の北側の窓から見た朝焼けです。今日は一日良い天気の予感がします。

昨日大雨の中移動したため、乾燥室の中で乾かしましたが靴がまだびしょびしょです。ソックスは予備のものなので薄手です。この写真をよく見ると下半分は濡れていますが、スパッツのおかげで上半分はあまり濡れていません。どうして大量の水が靴の中に入ったのか不明です。ビブラムソールでゴアテックスを使用している良くできた靴ですが、水が大量に入るとはちょっと残念です。

5時30分 黒沢池ヒュッテを出発です。これから火打山を目指します。

茶臼山を越えて高谷池(こうやいけ)を目指します。

茶臼山の途中から北の方角です。さわやかな朝の心地よさが感じられるショットです。

東南の方角には昨日大変な大雨の中を登った妙高山が顔を出しました。

南西の方角には高妻山が見えます。これから先、雲にかかり再び姿を見ることができませんでした。そういう面で貴重な写真となりました。

こちらの登山道でも昨日の大雨の痕跡が見て取れます。

6時30分 高谷池に到着です。左には高谷池ヒュッテ、右にテントが見えます。

朝も早いのに進行方向(火打山)には夏の雲がわいてきました。

天狗の庭の手前から妙高山を振り返ったところです。

途中ヨツバシオガマが咲いていました。名前の由来の通りよく見るとたしかに四つ葉です。

かなりの身長があるオニアザミ(鬼薊)です。かなり迫力があります。

天狗の庭に到着です。左上に見えるはずの火打山は濃いガスに覆われています。今登っている人はかなり不幸な人です。

美しい湿原地帯です。どうしてこれが天狗の庭なのか無学の自分にはよくわかりません。

手持ちの図鑑ではミヤマカラマツ(深山唐松)ににています。

途中雪渓も残っていました。

手持ちの図鑑ではヤマハハコ(山母子)ににています。

うっすらと北アルプス(後立山の白馬岳周辺)を見ることができました。

ウメバチソウか?

イブキトラノオか?

ヒメシャジン(姫紗参)か?

左上に雲に覆われた妙高山と中央部に天狗の庭が見えます。

オタカラコウ(雄宝香)か?

トリカブトはつぼみです。

手元の図鑑では同定が困難なのでネットで検索した結果、キク科アキノキリンソウ属の植物のコガネギクと思われます。

ライチョウ平に到着です。残念ながら雷鳥は不在でした。

イワカガミがきれいに咲いていました。

このあたりの登山道も昨日の大雨でぬかるんでいます。

手持ちの図鑑ではウサギギク(兎菊)のようです。

8時29分花の写真を撮りながらゆっくり歩いて3時間ちょうどで山頂に到着です。天候はまずまずですが、100名山の妙高山、高妻山、北アルプスは残念ながら見ることができませんでした。

日本海の方角です。ガイドブックには佐渡島が見えると書いてありますが残念ながらよくわかりませんでした。

北西、富山や能登半島の方角です。

2500m近くの標高では食べ物の袋がぱんぱん状態です。いつものことですが、いつも感動しています。中に入っているパンは心なしか圧縮されている感じがしました。

一時的ですが妙高山の山頂から雲が晴れました。今登っている人には一瞬こちら側が見えたことでしょう。

帰りに天狗の庭を通った時は正面に火打山が姿を現していました。

10時36分 帰りには高谷池ヒュッテに立ち寄り、コーラを購入です。ついでに水を補給します(ヒュッテの人の話ではここの水は煮沸が必要ですとのことでした)

11時27分 富士見平に到着です。

12時27分 帰りにも黒沢川で休憩です。ここの水は冷たくて、顔を洗うと生き返った気持ちになれます。

13時38分 笹ヶ峰登山口に到着です。
この後インターーの近くで温泉に入りました。設備がきれいで食堂もあります。特徴としては、泥や砂が混じった露天風呂があることです。泥に包まれているとなんだか体に良い気分に思えます。難点を言えば結構値段が高いことでしょう。
http://www.onsencafe.com/
今回は来るときは関越を利用したので、帰りは中央高速を通って帰ることにしました。ところが、平日なのに事故があったみたいで大月から八王子まで3時間以上の掲示がされていました。このままでは、自宅に到着する時間は10時頃になってしまいます。そこで、急遽とった裏の手は、大月から御殿場にでて東名高速で横浜青葉インターまで帰ることです。結果的に9時頃には自宅に帰ることが出来たので正解だったようです。
朝4時に起床し4時半から朝食です。ここの朝食は名物のクレープです。ジャムを挟んで食べますがそんなにたくさん食べられるものではありません。その分コーヒーをたくさん飲みました。
火打山は100名山のうち41目の山となります。

黒沢池ヒュッテをスタートして高谷池(コウヤイケ)と天狗の庭を経由して火打山に登ります。登頂後は、高谷池、富士見平を経由して駐車場まで帰ります。

累積標高は621m、沿面距離は12.67km、推定時間5時間26分の昨日とは打って変わってお手軽な山歩きです。
火打山と妙高山を一泊して登る場合最初に火打山に登る人がほとんどです。この理由はようやくわかりました。これからこの両山を登る予定がある人は火打山を最初に登るようにしてください。こうしないと1日目がきつすぎ、2日目が楽すぎというバランスの悪い二日間となります。これからは言い訳のようになりますが、今回妙高山に先に登ることになったのは、宿泊地を黒沢池ヒュッテに泊まることを決めたからです。しかし、黒沢池ヒュッテに泊まる際、火打山を先に登ってもいっこうに問題がありませんでした。いろいろ考えて思慮が足りませんでした。

4時51分ごろ八角形の北側の窓から見た朝焼けです。今日は一日良い天気の予感がします。
昨日大雨の中移動したため、乾燥室の中で乾かしましたが靴がまだびしょびしょです。ソックスは予備のものなので薄手です。この写真をよく見ると下半分は濡れていますが、スパッツのおかげで上半分はあまり濡れていません。どうして大量の水が靴の中に入ったのか不明です。ビブラムソールでゴアテックスを使用している良くできた靴ですが、水が大量に入るとはちょっと残念です。
5時30分 黒沢池ヒュッテを出発です。これから火打山を目指します。
茶臼山を越えて高谷池(こうやいけ)を目指します。
茶臼山の途中から北の方角です。さわやかな朝の心地よさが感じられるショットです。
東南の方角には昨日大変な大雨の中を登った妙高山が顔を出しました。
南西の方角には高妻山が見えます。これから先、雲にかかり再び姿を見ることができませんでした。そういう面で貴重な写真となりました。
こちらの登山道でも昨日の大雨の痕跡が見て取れます。
6時30分 高谷池に到着です。左には高谷池ヒュッテ、右にテントが見えます。
朝も早いのに進行方向(火打山)には夏の雲がわいてきました。
天狗の庭の手前から妙高山を振り返ったところです。
途中ヨツバシオガマが咲いていました。名前の由来の通りよく見るとたしかに四つ葉です。
かなりの身長があるオニアザミ(鬼薊)です。かなり迫力があります。
天狗の庭に到着です。左上に見えるはずの火打山は濃いガスに覆われています。今登っている人はかなり不幸な人です。
美しい湿原地帯です。どうしてこれが天狗の庭なのか無学の自分にはよくわかりません。
手持ちの図鑑ではミヤマカラマツ(深山唐松)ににています。
途中雪渓も残っていました。
手持ちの図鑑ではヤマハハコ(山母子)ににています。
うっすらと北アルプス(後立山の白馬岳周辺)を見ることができました。
ウメバチソウか?
イブキトラノオか?
ヒメシャジン(姫紗参)か?
左上に雲に覆われた妙高山と中央部に天狗の庭が見えます。
オタカラコウ(雄宝香)か?
トリカブトはつぼみです。
手元の図鑑では同定が困難なのでネットで検索した結果、キク科アキノキリンソウ属の植物のコガネギクと思われます。
ライチョウ平に到着です。残念ながら雷鳥は不在でした。
イワカガミがきれいに咲いていました。
このあたりの登山道も昨日の大雨でぬかるんでいます。
手持ちの図鑑ではウサギギク(兎菊)のようです。
8時29分花の写真を撮りながらゆっくり歩いて3時間ちょうどで山頂に到着です。天候はまずまずですが、100名山の妙高山、高妻山、北アルプスは残念ながら見ることができませんでした。
日本海の方角です。ガイドブックには佐渡島が見えると書いてありますが残念ながらよくわかりませんでした。
北西、富山や能登半島の方角です。
2500m近くの標高では食べ物の袋がぱんぱん状態です。いつものことですが、いつも感動しています。中に入っているパンは心なしか圧縮されている感じがしました。
一時的ですが妙高山の山頂から雲が晴れました。今登っている人には一瞬こちら側が見えたことでしょう。

帰りに天狗の庭を通った時は正面に火打山が姿を現していました。

10時36分 帰りには高谷池ヒュッテに立ち寄り、コーラを購入です。ついでに水を補給します(ヒュッテの人の話ではここの水は煮沸が必要ですとのことでした)
11時27分 富士見平に到着です。

12時27分 帰りにも黒沢川で休憩です。ここの水は冷たくて、顔を洗うと生き返った気持ちになれます。
13時38分 笹ヶ峰登山口に到着です。
この後インターーの近くで温泉に入りました。設備がきれいで食堂もあります。特徴としては、泥や砂が混じった露天風呂があることです。泥に包まれているとなんだか体に良い気分に思えます。難点を言えば結構値段が高いことでしょう。
http://www.onsencafe.com/
今回は来るときは関越を利用したので、帰りは中央高速を通って帰ることにしました。ところが、平日なのに事故があったみたいで大月から八王子まで3時間以上の掲示がされていました。このままでは、自宅に到着する時間は10時頃になってしまいます。そこで、急遽とった裏の手は、大月から御殿場にでて東名高速で横浜青葉インターまで帰ることです。結果的に9時頃には自宅に帰ることが出来たので正解だったようです。
妙高山、2446m 2011/08/07 [百名山]
電力不足をうけて会社は、有給休暇(夏休み)取得促進の方針を出しました。この考えをありがたく受け入れて8、9日を休む事に決定。早速山登りを実行です。
今回は、6日(土)に笹ヶ峰登山口に移動、7日(日)早朝にスタートし妙高山に登頂。その後山小屋に一泊し翌日は、山小屋をスタートし火打山に登頂後、昼過ぎに駐車場まで戻ってくるという計画を立てました。

笹ヶ峰駐車場をスタートして、富士見平を右折し、黒沢池ヒュッテ(今回利用した地図には黒沢ヒュッテとなっているが、「池」が入るのが正式のようです。昔はそう呼ばれたのかな?)を経由し妙高山を目指します。登頂後黒沢池ヒュッテに泊まります。

累積標高は1526m、沿面距離は10.86km、推定時間7時間22分の少しハードな山歩きです。しかし、データではわからない大変な山行となってしまいました。

このコースは一見すると何の問題もないと思われますが、悪条件が想定できなかったり、いくつかミスを犯したため結構大変な山登りとなりました。

前日高速道路のパーキングエリアから見上げた妙高山です。かなりの迫力を感じました。

6日は夕方の6時頃笹ヶ峰の駐車場に到着です。
ここの駐車場は、トイレットペーパーも完備したきれいな水洗トイレがあります。標高も1300mもあることから暑くも寒くもない車中泊に適したところでした。
<第一のミス>
車中泊に必要な大事なものを持ってくるのを忘れてきました。それは、ガスボンベです。水も食料もたくさんあるのにお湯を沸かすことが出来ないので何も食べることが出来ない。近くのキャンプ場の管理棟によってもあるのはビールくらいで食べるものが置いていない。仕方がないので、長岡ナンバーの車の人にガスを借りてお湯を沸かしカレーうどんを作って食べました。
しかし、明日の朝にもう一度ガスボンベを貸してくれと言いづらいので「朝バナナ」と非常食用のカロリーメイトだけでスタートすることにします。これだけでは一日のエネルギーにならないので、苦肉の策としてアルファー米の赤飯に水(お湯ではない)を入れて1時間から2時間後に朝食をとることにします。

笹ヶ峰登山口を5時49分にスタートします。アルプス登山時には提出している「登山計画書」は今回パスさせてもらいます。本当は何があるかもしれないので、常に「登山計画書」は提出するべきでしょう。よい子の皆さんはまねをしないように。

登りはじめは木道で整備された大変歩きやすい道です。

後でわかった事ですが昨日は猛烈な雨が一時的に降ったようです。その影響からか、かなりぬかるんでいます。勘で着用したスパッツがかなり重宝します。

ちょうど歩き始めから1時間で、黒沢川を渡ります。これからこの川の最上流に位置する黒沢池ヒュッテを目指します。

歩き始めは木道でしたが、このあたりは結構荒れています。

途中から、ぬれた大きな岩が多くなってきました。滑らないように慎重に進んでいきます。

荒れているなと思ったら、途中にはかなり整備された道も現れます。関係者の方々の努力を感謝します。

2時間30分で富士見平の分岐点に到着です。
これからこの分岐を右折して黒沢池の方向に進みます。

右折してからすぐにクルマユリのお出迎えです。大変大輪で美しい花です。

このあたりも昨日の雨でかなりぬかるんでいます。この頃は登山靴を汚さないように慎重に歩いていますがそのうちに・・・

しばらく行くと広大な湿地帯(黒沢池)になります。よく見ると右に登山客がいますが、なかなか進んでいかないようです。理由はすぐにわかりました。いろんな花が咲きていることから花の写真撮影に時間をとられていたのでした。妙高山に登らなくてもこの湿原を散策するだけでも気持ちが良いところなので、結構お薦めです。

つり金型の花(ヒメシャジン?ツリガネニンジン?)、ヨツバシオガマ、ハクサンフウロ、イワオトギリ(岩弟切)か?みんなで仲良く咲いています。

コバイケイソウはつぼみのようです。
猛毒で有名な植物ですがこの先この葉っぱに口をつけて水をすすることになろうとは、この時点では想像すら出来ませんでした。

黒沢川の上流の渓流は水は透きとっており大変きれいでした。この渓流に木橋が架かっていました。まわりは美しいお花畑です。

アザミの花に通常の倍以上もある大きなミツバチが2匹蜜を吸っていました。

ハクサンフウロ

オトギリソウ

手持ちの図鑑ではコガネギク(黄金菊)か?アキノキリンソウの高山型だそうです。

これは先ほど紹介したクルマユリでしょう。大変たくさん咲いていました。

手持ちの図鑑ではモミジカラマツ(紅葉唐松)ににている。

手持ちの図鑑ではタカネニガナ(高嶺苦菜)ににている。珍しいのか、どこにでもいる種類なのかチョウチョの撮影にも成功しました。

よく見ると水芭蕉の群落です。花は残念ながら終わってしまったようです。

今日の宿泊地の黒沢池ヒュッテまであと300mです。ここの看板では、黒沢ヒュッテと表記されています。

9時32分、今日の宿泊地黒沢池ヒュッテに到着です。

ここでようやく朝ご飯です。4時間前に水を入れた赤飯が結構おいしくできあがっていました。今回、ガスボンベを忘れたための苦し紛れのチャレンジですが、今後この作戦は使えそうです。
皆さんにもお薦めします。(今日初めてのまともな食事ですが、このご飯はこの後4時間30分の過酷な山登りの貴重なエネルギー源として大変役立ちました。)

9:50、これから妙高山に向けて出発です。

昨日の大雨の影響でかなり登山道が歩きにくくなっています。

外輪山をトラバースしていきます。よく見ると道がついているのが見えます。

実の大きさが1センチくらいの小さな苺(手持ちの図鑑ではノウゴウイチゴ)がなっていました。この小さな苺を人は品種改良を重ねて、大きくておいしい苺にしていったのかな?

土の下は氷です。そのまま直線的に歩いて行くと滑り落ちてしまいそうです。ここでは、少し下の方を歩くと安全に通過できます。

釣り鐘タイプの花は大変見分けが難しい。図鑑を見ても??。今回はキキョウ科の「ヒメシャジン」としておきます。ちがっていたらごめんなさい。

途中雪渓に出逢いました。変なところを踏むとズボッとはまってしまいます。ここでは上流の部分を歩くのが正解です。

外輪山を過ぎ直登部分にさしかかると滑りやすくぬれた大岩ばかりが出現するようになります。途中ロープも多く大変な区間ですが、雨がけっこう降り始め気分がめいってきます。といっても、途中で引き返す気にもなれず元気を振り絞って登るだけです。

12時25分、2時間15分をかけて登頂成功です。
今写真に写っている姿を見ると何か足りないものに気づきます。そうですザックがないのです。というのも、黒沢池ヒュッテで「空荷でペットボトルをポッケに入れてカッパを腰に巻いて往復したらどう?コース時間で5時間、空荷で4時間ちょっとかな」といわれたのであまり深く考えず、7割しか入っていないペットボトルを一つに赤のソフトシェルを腰に巻いて実行したのです。
<大反省①>
今回出発時までは良い天気でしたが、11頃から雨が降り始め、4時間30分の内3時間は雨となってしまいました。そのうち1時間は雷が鳴り始め、バケツをひっくり返したような雨の中の移動です。もちろん雨具は山小屋のザックの中なのでしゃれにならないほどのびしょ濡れです。山小屋に帰り着いた状態をたとえるならば、服を着たまま川の中を泳いで移動したような有様でした。
普通スパッツを着けたゴアテックスの登山靴はどんな雨の中を移動しても靴の中までぬれることはありませんが、今回は靴を脱いで逆さまにするとコップ半分の水が流れ出ました。
今回は気温も高く標高も比較的低かったため、雨に濡れてもそんなに寒さは感じませんでしたが、之が3000m急の山であったり、気温が下がる秋でなかったのが幸いでした。
<大反省②>
冷静になって考えるとわかることですが、真夏のシーズンの4~5時間の山登りで400cc程度の水だけで足りるわけがない。大反省です。今回は幸いなことに雨が降っていたので笹やコバイケイソウなどの葉にたまった水を すすったり、木からしたたる水のしずくを口で受けながら何とかのどの渇きを癒しました。それから、幸いなことに大雨の影響で雪渓の下に清流が流れていたことが幸いして何とか水を口にすることが出来ました。カラカラの天候であればと考えると登頂はなしえなかったでしょう。
このブログを読んでいる人の中にはこんな間抜けな人はいないでしょうが、念のための忠告です。ザックをデポしてペットボトルを持って空荷でアタックするのは往復2時間以内の山に限るべきでしょう。あほな登山者からの忠告です。

14時40分、4時間25分もかけた末、濡れ鼠のようになりながら無事に山小屋への帰還です。今回はくしくも行きと帰りの時間がほぼ同タイムとなりました。それほど、帰りの1時間のバケツの水をかぶりながら、滝のように登山道を流れ落ちる水との戦いが壮絶であった事が伺えます。
ここの山小屋は八角形で出来ており、真ん中の階段に向かってみんな足を向けて寝ます。今回は、Bのコースの3人スペースを一人で使用します。ここで体の芯まで冷え切った体を毛布で包んで食事までの2時間30分仮眠タイムです。

5時30分からコーンスープとご飯と味噌汁の微妙な組み合わせの夕食です。一眠りが聞いたのか、ご飯をおかわりしました。
あとは、ゆったりしたスペースで4時までぐっすりと寝るだけです。
今回は大変反省する事が多くありました。幸いなことに大事に至ったってはいませんが山では慎重な上にも慎重な行動が要求されるということがよくわかった1日でした。
今回は、6日(土)に笹ヶ峰登山口に移動、7日(日)早朝にスタートし妙高山に登頂。その後山小屋に一泊し翌日は、山小屋をスタートし火打山に登頂後、昼過ぎに駐車場まで戻ってくるという計画を立てました。

笹ヶ峰駐車場をスタートして、富士見平を右折し、黒沢池ヒュッテ(今回利用した地図には黒沢ヒュッテとなっているが、「池」が入るのが正式のようです。昔はそう呼ばれたのかな?)を経由し妙高山を目指します。登頂後黒沢池ヒュッテに泊まります。

累積標高は1526m、沿面距離は10.86km、推定時間7時間22分の少しハードな山歩きです。しかし、データではわからない大変な山行となってしまいました。

このコースは一見すると何の問題もないと思われますが、悪条件が想定できなかったり、いくつかミスを犯したため結構大変な山登りとなりました。
前日高速道路のパーキングエリアから見上げた妙高山です。かなりの迫力を感じました。
6日は夕方の6時頃笹ヶ峰の駐車場に到着です。
ここの駐車場は、トイレットペーパーも完備したきれいな水洗トイレがあります。標高も1300mもあることから暑くも寒くもない車中泊に適したところでした。
<第一のミス>
車中泊に必要な大事なものを持ってくるのを忘れてきました。それは、ガスボンベです。水も食料もたくさんあるのにお湯を沸かすことが出来ないので何も食べることが出来ない。近くのキャンプ場の管理棟によってもあるのはビールくらいで食べるものが置いていない。仕方がないので、長岡ナンバーの車の人にガスを借りてお湯を沸かしカレーうどんを作って食べました。
しかし、明日の朝にもう一度ガスボンベを貸してくれと言いづらいので「朝バナナ」と非常食用のカロリーメイトだけでスタートすることにします。これだけでは一日のエネルギーにならないので、苦肉の策としてアルファー米の赤飯に水(お湯ではない)を入れて1時間から2時間後に朝食をとることにします。
笹ヶ峰登山口を5時49分にスタートします。アルプス登山時には提出している「登山計画書」は今回パスさせてもらいます。本当は何があるかもしれないので、常に「登山計画書」は提出するべきでしょう。よい子の皆さんはまねをしないように。
登りはじめは木道で整備された大変歩きやすい道です。
後でわかった事ですが昨日は猛烈な雨が一時的に降ったようです。その影響からか、かなりぬかるんでいます。勘で着用したスパッツがかなり重宝します。
ちょうど歩き始めから1時間で、黒沢川を渡ります。これからこの川の最上流に位置する黒沢池ヒュッテを目指します。
歩き始めは木道でしたが、このあたりは結構荒れています。
途中から、ぬれた大きな岩が多くなってきました。滑らないように慎重に進んでいきます。
荒れているなと思ったら、途中にはかなり整備された道も現れます。関係者の方々の努力を感謝します。
2時間30分で富士見平の分岐点に到着です。
これからこの分岐を右折して黒沢池の方向に進みます。
右折してからすぐにクルマユリのお出迎えです。大変大輪で美しい花です。
このあたりも昨日の雨でかなりぬかるんでいます。この頃は登山靴を汚さないように慎重に歩いていますがそのうちに・・・
しばらく行くと広大な湿地帯(黒沢池)になります。よく見ると右に登山客がいますが、なかなか進んでいかないようです。理由はすぐにわかりました。いろんな花が咲きていることから花の写真撮影に時間をとられていたのでした。妙高山に登らなくてもこの湿原を散策するだけでも気持ちが良いところなので、結構お薦めです。
つり金型の花(ヒメシャジン?ツリガネニンジン?)、ヨツバシオガマ、ハクサンフウロ、イワオトギリ(岩弟切)か?みんなで仲良く咲いています。
コバイケイソウはつぼみのようです。
猛毒で有名な植物ですがこの先この葉っぱに口をつけて水をすすることになろうとは、この時点では想像すら出来ませんでした。
黒沢川の上流の渓流は水は透きとっており大変きれいでした。この渓流に木橋が架かっていました。まわりは美しいお花畑です。
アザミの花に通常の倍以上もある大きなミツバチが2匹蜜を吸っていました。
ハクサンフウロ
オトギリソウ

手持ちの図鑑ではコガネギク(黄金菊)か?アキノキリンソウの高山型だそうです。
これは先ほど紹介したクルマユリでしょう。大変たくさん咲いていました。
手持ちの図鑑ではモミジカラマツ(紅葉唐松)ににている。
手持ちの図鑑ではタカネニガナ(高嶺苦菜)ににている。珍しいのか、どこにでもいる種類なのかチョウチョの撮影にも成功しました。
よく見ると水芭蕉の群落です。花は残念ながら終わってしまったようです。
今日の宿泊地の黒沢池ヒュッテまであと300mです。ここの看板では、黒沢ヒュッテと表記されています。
9時32分、今日の宿泊地黒沢池ヒュッテに到着です。
ここでようやく朝ご飯です。4時間前に水を入れた赤飯が結構おいしくできあがっていました。今回、ガスボンベを忘れたための苦し紛れのチャレンジですが、今後この作戦は使えそうです。
皆さんにもお薦めします。(今日初めてのまともな食事ですが、このご飯はこの後4時間30分の過酷な山登りの貴重なエネルギー源として大変役立ちました。)
9:50、これから妙高山に向けて出発です。
昨日の大雨の影響でかなり登山道が歩きにくくなっています。
外輪山をトラバースしていきます。よく見ると道がついているのが見えます。
実の大きさが1センチくらいの小さな苺(手持ちの図鑑ではノウゴウイチゴ)がなっていました。この小さな苺を人は品種改良を重ねて、大きくておいしい苺にしていったのかな?
土の下は氷です。そのまま直線的に歩いて行くと滑り落ちてしまいそうです。ここでは、少し下の方を歩くと安全に通過できます。
釣り鐘タイプの花は大変見分けが難しい。図鑑を見ても??。今回はキキョウ科の「ヒメシャジン」としておきます。ちがっていたらごめんなさい。
途中雪渓に出逢いました。変なところを踏むとズボッとはまってしまいます。ここでは上流の部分を歩くのが正解です。
外輪山を過ぎ直登部分にさしかかると滑りやすくぬれた大岩ばかりが出現するようになります。途中ロープも多く大変な区間ですが、雨がけっこう降り始め気分がめいってきます。といっても、途中で引き返す気にもなれず元気を振り絞って登るだけです。
12時25分、2時間15分をかけて登頂成功です。
今写真に写っている姿を見ると何か足りないものに気づきます。そうですザックがないのです。というのも、黒沢池ヒュッテで「空荷でペットボトルをポッケに入れてカッパを腰に巻いて往復したらどう?コース時間で5時間、空荷で4時間ちょっとかな」といわれたのであまり深く考えず、7割しか入っていないペットボトルを一つに赤のソフトシェルを腰に巻いて実行したのです。
<大反省①>
今回出発時までは良い天気でしたが、11頃から雨が降り始め、4時間30分の内3時間は雨となってしまいました。そのうち1時間は雷が鳴り始め、バケツをひっくり返したような雨の中の移動です。もちろん雨具は山小屋のザックの中なのでしゃれにならないほどのびしょ濡れです。山小屋に帰り着いた状態をたとえるならば、服を着たまま川の中を泳いで移動したような有様でした。
普通スパッツを着けたゴアテックスの登山靴はどんな雨の中を移動しても靴の中までぬれることはありませんが、今回は靴を脱いで逆さまにするとコップ半分の水が流れ出ました。
今回は気温も高く標高も比較的低かったため、雨に濡れてもそんなに寒さは感じませんでしたが、之が3000m急の山であったり、気温が下がる秋でなかったのが幸いでした。
<大反省②>
冷静になって考えるとわかることですが、真夏のシーズンの4~5時間の山登りで400cc程度の水だけで足りるわけがない。大反省です。今回は幸いなことに雨が降っていたので笹やコバイケイソウなどの葉にたまった水を すすったり、木からしたたる水のしずくを口で受けながら何とかのどの渇きを癒しました。それから、幸いなことに大雨の影響で雪渓の下に清流が流れていたことが幸いして何とか水を口にすることが出来ました。カラカラの天候であればと考えると登頂はなしえなかったでしょう。
このブログを読んでいる人の中にはこんな間抜けな人はいないでしょうが、念のための忠告です。ザックをデポしてペットボトルを持って空荷でアタックするのは往復2時間以内の山に限るべきでしょう。あほな登山者からの忠告です。

14時40分、4時間25分もかけた末、濡れ鼠のようになりながら無事に山小屋への帰還です。今回はくしくも行きと帰りの時間がほぼ同タイムとなりました。それほど、帰りの1時間のバケツの水をかぶりながら、滝のように登山道を流れ落ちる水との戦いが壮絶であった事が伺えます。
ここの山小屋は八角形で出来ており、真ん中の階段に向かってみんな足を向けて寝ます。今回は、Bのコースの3人スペースを一人で使用します。ここで体の芯まで冷え切った体を毛布で包んで食事までの2時間30分仮眠タイムです。

5時30分からコーンスープとご飯と味噌汁の微妙な組み合わせの夕食です。一眠りが聞いたのか、ご飯をおかわりしました。
あとは、ゆったりしたスペースで4時までぐっすりと寝るだけです。
今回は大変反省する事が多くありました。幸いなことに大事に至ったってはいませんが山では慎重な上にも慎重な行動が要求されるということがよくわかった1日でした。
木曽駒ヶ岳、2956m 2011/0717 [百名山]
遠征の二日目は木曽駒ヶ岳です。家を出るときは、ロープーウェイを使う安易さと、バスとロープーウェイを使う煩わしさからがいやで、福島Bコースを使って自力で登る予定でした。しかし、前日の焼岳では強い日差しに負けて、下山後にかなり体力の消耗を感じました。そこで、誘惑に負けて文明の力を借りることにしました。昔からそうですが、軟弱体質は変わらないようです。
木曽駒ヶ岳は100名山のうち39座目の山となります。

スタートはロープーウェイの終点です。乗越浄土、中岳を通って木曽駒ヶ岳に登ります。

累積標高は415m、沿面距離は3.83km、推定時間2時間36分のお手軽な山歩きです。この山は標高が高いため、お手軽なデータの割に結構体力を使います。これは、酸素の濃度が薄いことが理由でしょう。
通常は3000m級の頂上までには歩いて登るため時間をかけますが、ここではお手軽に高山まで運んでくれるので高山病にかかりやすいといえます。実際、軽い吐き気があり息苦しさも感じられました。たぶん、軽い高山病にかかったのでしょう。

登りはじめは結構急斜面です。今回は人が多いのでスピードも遅く、時折立ち止まってゆっくりと雲海写真を撮る余裕も結構ありました。

昨日は近くにあった「こぶしの湯」につかったあと、9時過ぎに「黒川平駐車場」到着し車中泊です。四時半にアラームをかけて就寝です。予定では5時過ぎにバスに並ぼうと考えていましたが、四時半に起きたときにはすでに100人くらいの人が並んでいるのが見えました。そこで、あわてて食事はおろかトイレも行く暇もなく、4時45分に並ぶ羽目になりました。(後でわかったがすでに250人くらい並んでいた模様)この写真は4時45分に並んだときの状態です。

5時28分時点で後ろを振り返ると、自分の後にたくさんの人が並んでいました。

5時50分頃バスに乗り、6時20分「しらびだいら」のロープーウェイ乗り場に着いたところです。

今回配布された整理券は248番でした。この位置では6:45の5便に乗ることになります。実際のロープーウェイのスタートは予定より遅れて7時11分でした。

先頭に乗ったため宝剣岳の写真を撮ることが出来ました。

中間地点でのすれ違いです。

2612mの山頂駅とランドマークの宝剣岳が見えます。

最高の天気です。今日は昨日の日焼けの反省から、長袖に帽子着用で出発です。

歩き始めの場所に雪渓が残っていました。

雲海の向こうに南アルプスがきれいに見えます。

非常に気持ち良い山歩きです。

乗越浄土が近づいてきました。

乗越浄土にある宝剣山荘のそばです。8時頃ですが結構の人が登ってきています。

東の方角に浅間山や八ヶ岳が見えます。

中岳の巻き道から、木曽の御嶽山と木曽駒ヶ岳の頂上が見えてきました。

南の方角には、昨年日帰りで登った空木岳(うつぎだけ)が見えます。

9時ちょうどに頂上に到着です。約1時間30分かかりました。今日のファッションは昨日とは打って変わり、長袖に帽子姿です。昨日もこの格好だったらと・・悔やまれます。

北には北アルプスが望めます。

北東には浅間山や蓼科山が見えます。

東の方角は南アルプスの百名山がたくさん望めます。


左上に昨日登った焼岳がよく見えます。

和合山あたりで救助ヘリが人をつり上げていました。そのヘリが富士山の近くを通過するところです。

1時間ほど休憩し、10時に下山開始です。くるときには無かったテントがたくさん設営されています。

今回は宝剣岳に登るのを楽しみにしていましたが、「頂上には人が多く30分以上待たされた」とか「早くロープーウェイに並ばないと3時間待ちもあるので、早く下山してください。」と繰り返し放送していた事を考慮し、宝剣岳は次回の楽しみにとっておくことにしました。そうと決まると素早く下山です。

下山にかかりましたが、人が多く大渋滞でほとんど待ってばかりです。

大渋滞のおかげでクロユリの写真を撮ることが出来ました。今回の山行では「いわかがみ」や「こまくさ」、「しなのきんばい」、「チングルマ」に出逢うことが出来ました。

11時10分にロープーウェイ乗り場に到着。拍子抜けするほどすぐに乗ることが出来ました。そして、バスにも順調に乗ることが出来、12時10分に駐車場まで帰ってきました。3時間の・・・は何だったのでしょうか?
その後、近くのこまくさの湯でゆったりとしました。
http://www.komakusanoyu.com/

帰りの中央高速は大、大、大渋滞です。2時に高速に乗ってから国立府中まで約5時間もかかってしまいました。
その後翌日は3時半に起きてサッカーの観戦です。久しぶりに感動しました。でかした「なでしこジャパン」感動を有り難う。
木曽駒ヶ岳は100名山のうち39座目の山となります。

スタートはロープーウェイの終点です。乗越浄土、中岳を通って木曽駒ヶ岳に登ります。

累積標高は415m、沿面距離は3.83km、推定時間2時間36分のお手軽な山歩きです。この山は標高が高いため、お手軽なデータの割に結構体力を使います。これは、酸素の濃度が薄いことが理由でしょう。
通常は3000m級の頂上までには歩いて登るため時間をかけますが、ここではお手軽に高山まで運んでくれるので高山病にかかりやすいといえます。実際、軽い吐き気があり息苦しさも感じられました。たぶん、軽い高山病にかかったのでしょう。

登りはじめは結構急斜面です。今回は人が多いのでスピードも遅く、時折立ち止まってゆっくりと雲海写真を撮る余裕も結構ありました。

昨日は近くにあった「こぶしの湯」につかったあと、9時過ぎに「黒川平駐車場」到着し車中泊です。四時半にアラームをかけて就寝です。予定では5時過ぎにバスに並ぼうと考えていましたが、四時半に起きたときにはすでに100人くらいの人が並んでいるのが見えました。そこで、あわてて食事はおろかトイレも行く暇もなく、4時45分に並ぶ羽目になりました。(後でわかったがすでに250人くらい並んでいた模様)この写真は4時45分に並んだときの状態です。

5時28分時点で後ろを振り返ると、自分の後にたくさんの人が並んでいました。

5時50分頃バスに乗り、6時20分「しらびだいら」のロープーウェイ乗り場に着いたところです。

今回配布された整理券は248番でした。この位置では6:45の5便に乗ることになります。実際のロープーウェイのスタートは予定より遅れて7時11分でした。

先頭に乗ったため宝剣岳の写真を撮ることが出来ました。

中間地点でのすれ違いです。

2612mの山頂駅とランドマークの宝剣岳が見えます。

最高の天気です。今日は昨日の日焼けの反省から、長袖に帽子着用で出発です。

歩き始めの場所に雪渓が残っていました。

雲海の向こうに南アルプスがきれいに見えます。

非常に気持ち良い山歩きです。

乗越浄土が近づいてきました。

乗越浄土にある宝剣山荘のそばです。8時頃ですが結構の人が登ってきています。

東の方角に浅間山や八ヶ岳が見えます。

中岳の巻き道から、木曽の御嶽山と木曽駒ヶ岳の頂上が見えてきました。

南の方角には、昨年日帰りで登った空木岳(うつぎだけ)が見えます。

9時ちょうどに頂上に到着です。約1時間30分かかりました。今日のファッションは昨日とは打って変わり、長袖に帽子姿です。昨日もこの格好だったらと・・悔やまれます。

北には北アルプスが望めます。

北東には浅間山や蓼科山が見えます。

東の方角は南アルプスの百名山がたくさん望めます。


左上に昨日登った焼岳がよく見えます。

和合山あたりで救助ヘリが人をつり上げていました。そのヘリが富士山の近くを通過するところです。

1時間ほど休憩し、10時に下山開始です。くるときには無かったテントがたくさん設営されています。

今回は宝剣岳に登るのを楽しみにしていましたが、「頂上には人が多く30分以上待たされた」とか「早くロープーウェイに並ばないと3時間待ちもあるので、早く下山してください。」と繰り返し放送していた事を考慮し、宝剣岳は次回の楽しみにとっておくことにしました。そうと決まると素早く下山です。

下山にかかりましたが、人が多く大渋滞でほとんど待ってばかりです。

大渋滞のおかげでクロユリの写真を撮ることが出来ました。今回の山行では「いわかがみ」や「こまくさ」、「しなのきんばい」、「チングルマ」に出逢うことが出来ました。

11時10分にロープーウェイ乗り場に到着。拍子抜けするほどすぐに乗ることが出来ました。そして、バスにも順調に乗ることが出来、12時10分に駐車場まで帰ってきました。3時間の・・・は何だったのでしょうか?
その後、近くのこまくさの湯でゆったりとしました。
http://www.komakusanoyu.com/

帰りの中央高速は大、大、大渋滞です。2時に高速に乗ってから国立府中まで約5時間もかかってしまいました。
その後翌日は3時半に起きてサッカーの観戦です。久しぶりに感動しました。でかした「なでしこジャパン」感動を有り難う。
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