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旧海軍史跡巡り<軍艦「陸奥」> [歴史探訪]

第11弾として軍艦「陸奥」を取り上げてみます。
「陸奥」は柱島泊所に繋留されていましたが、謎の爆発により沈没してしまいました。原因についてはいろいろな説がありますが、はっきりしていません。個人的には、中学生の頃自転車に乗って、江田島の切串にある深田サルベージまで引き揚げられた陸奥を見学に行ったことがあります。そのときに、刃の部分が錆びていない日本刀を目の当たりにし感動した記憶があります。
それから、個人的にはこの長門型戦艦(後期型)が一番好きです。

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陸奥(むつ)は、かつて日本海軍に所属した戦艦である。青森県から福島県にかけての旧国名・陸奥国を名前の由来に持つ。日本海軍の象徴として日本国民から親しまれたが、1943年(昭和18年)6月に主砲火薬庫爆発を起こして沈没した。

「陸奥」は長門型戦艦の2番艦で、八八艦隊計画二番手である。姉妹艦「長門」より1年遅れた1917年(大正6年)に八四艦隊案の一艦として加賀型戦艦、天城型巡洋戦艦と共に予算が承認された。1918年(大正7年)6月1日に横須賀海軍工廠にて起工され、1920年(大正9年)5月31日に進水、1921年(大正10年)11月22日、引渡し式が行われ軍艦籍に入った。佐世保鎮守府に入籍。

起工:1918年6月1日
進水:1920年5月31日
就役:1921年10月24日
その後:1943年6月8日に爆発、沈没
除籍:1943年9月1日
排水量:基準:32,720トン
全長:215.80m
全幅:28.96m
吃水:9.14m
機関:ロ号艦本式専焼缶15基、同混焼缶6基 艦本式タービン4基4軸 80,000馬力
最大速:26.7ノット
乗員:1,333名

艦長
・小牧自然 大佐:1921年(大正10年)3月1日 -
・黒瀬清一 大佐(海兵26期):1921年(大正10年)12月1日 - 
・寺岡平吾 大佐(海兵27期):1922年(大正11年)12月1日 - 
・原敢二郎 大佐(海兵28期):1923年(大正12年)12月1日 - 
・米内光政 大佐(海兵29期):1924年(大正13年)11月10日 - 

<引用:ウィキペディア>


江田島市の陀峯山の頂上の案内板
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江田島市大柿町にある陀峯山の頂上から沈没位置がみえるはず、と勇んで登ってみましたが、微妙な位置関係のようです。

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昇った日は、真冬日なのですっきりと視界がきくものと考えていましたが・・・・(これはきっと中国PM2.5のせいだ?)ドームの右奥に柱島が移っているので視界が良好であれば沈没箇所がよく見えた可能性があります。
このとき気づきましたが、デジカメの右上に変なものが映り込むようになりました。ネットで調べると、CCDのうえにゴミが付いているようです。自分で分解して掃除をするとすっかりきれいになりました。
参考>http://blog.livedoor.jp/hakodatedayo/archives/51703485.html
参考>http://kane-kasegi.com/repair/LUMIX.html


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2003年に江田島旧兵学校を見学した特に撮影したもので、「戦艦陸奥の主砲」が遠くに見えます。実際は近くまで行こうと思いましたが、術科学校の生徒が授業中なのでこの日は近づけませんと注意されてしまいました。

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大和ミュージアムの前庭に展示している陸奥のスクリュー(なぜか数カ所欠けている。爆発の影響か?)と主砲の砲身です。

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そばにいる人と比べるとかなり大きいことがわかります。


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大改造後の全力公試運転中の「陸奥」の姿です。
「1921年(大正10年)10月19日の全力公試では排水量33,750トン、87,479馬力で26.728ノットという、後の大和型戦艦に迫る速力を発揮した。」そうです。

<公試成績>
竣工時  87,494shp  26.728kt  1921年(大正10年)
大改装後 82,578shp  25.28kt   1936年(昭和11年)


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松山の「道後温泉」と「坂の上の雲ミュージアム」に行ったときフェリーを使って周防大島を通りました。そのとき、たまたま陸奥の記念館に立ち寄り見学をしましたが、ほとんど写真を撮っていませんでした。この写真は駐車場の前のフェンスを撮ったものです。


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陸奥の記念館前に展示している陸奥の碇です。記念館は立派なものでたくさんの展示物が提示されていました。ここで、中学生の頃見た錆びていない日本刀に再会することができました。
http://homepage3.nifty.com/ki43/heiki3/mutu/mutu.html


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陸奥の記念館(駐車場)前の海です。たぶんこの写真の左奥で陸奥が沈んだのでしょう。
この写真をよく見ると手こぎのゴムボートを海に浮かべて魚釣りをしている人がいます。普通ゴムボートは湖などの閉鎖水域で使用されますが、さすが瀬戸内海、なんと穏やかな景色でしょう。


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陸奥の勇姿です。長門と違うところは艦首の菊のご紋章の位置が高いところにあります。・・・ということで、正面の写真からは見分けが付くのですが、横からの写真はお手上げです。少し修行がいるようです。


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高校時代に「戦艦長門の生涯」という本を読んで感銘を受けたことがありますが、その本の中に煙突の煙が艦橋に入ってきて大変だったので、最初は煙突の前にフードのようなものをつけた。その後の改装時に煙突を湾曲させた、というような記述があったことを思い出しました。


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この写真は正面からですが、波しぶきが高くて菊のご紋章が見えません。この写真を見せられても私には長門か陸奥か見分けが付きません。


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煙突が1本となりかなりすっきりしました。そして、艦首の部分も鈍角から鋭角になりかなりかっこよくなりました。マストの高さも低くなったようです。


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姉妹艦の長門の勇姿です


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陸奥の絵はがき


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陸奥の建造時の写真です。陸奥は呉造船ではなく横須賀で作られました。


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艦首の形状、高い艦橋とマスト、大変美しい姿です。


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誰が見ても「長門型戦艦」とわかる代表的なシルエットです。


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この写真が撮られた時期はマストの高さが低かったようです。

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この写真は姉妹艦の長門のようです。(実は菊のご紋章の位置から陸奥だと思っていましたが、、識別には自信がなくなりました)


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勇壮な陸奥の姿です

<陸奥爆沈>

1943年(昭和18年)1月12日に横須賀に到着した後は内地待機が続いた。6月8日、「陸奥」は広島湾沖柱島泊地に停泊していた。早朝から降っていた霧雨がやみ、無風で霧が泊地を覆っていたという。「陸奥」の周囲には姉妹艦「長門」、戦艦「扶桑」、重巡洋艦「最上」、軽巡洋艦「大淀」、「龍田」、駆逐艦「若月」、「玉波」が停泊している。この日「陸奥」は桂島泊地に向かう「長門」に旗艦ブイを譲るため、午後1時から繋留替えをする予定になっていた。「長門」は「陸奥」の右舷前方で一旦停止する。航海科員が錨地変更作業の準備をしていた12時10分ごろ、「陸奥」は三番砲塔付近から突然に煙を噴きあげて爆発を起こし、一瞬のうちに船体が2つに折れた。艦前部は右舷に傾斜すると、爆発後すぐに沈没した。この時、360tもの重量がある三番砲塔が艦橋とほぼ同じ高さまで吹き飛んだという目撃証言もある

「長門」は「陸奥」轟沈を米潜水艦雷撃によるものと判断し、増速して現場を離れると、救助艇を発進させた。艦後部は爆発後しばらく艦尾部分を上にして浮いており、「長門」短艇が接舷して救助作業を行っている。艦尾部分は午後5時ごろまで浮いていたが、日没後に沈没した。乗員1,474人(定員1,343名、予科練甲飛第十一期練習生と教官130名余が艦務実習で乗艦)のうち助かったのは353人で、死者のほとんどは溺死でなく爆死だった。
「陸奥」の南南西約1,000mに停泊していた戦艦「扶桑」は「陸奥爆沈ス。一二一五」と発信、以後「陸奥」に関する一切の発信は禁止された。また付近の航行は禁止され、死亡した乗員の家族には給料の送金を続けるなど、「陸奥」の爆沈は一般には秘匿され、国民は戦後になるまでこの事件を知らされなかった。1943年(昭和18年)は山本五十六連合艦隊司令長官が戦死、アッツ島玉砕など暗いニュースが連続しており、国民に親しまれた「陸奥」が戦わずして爆沈という最悪のニュースを内外に報道することができなかったという事情もある。もっとも連合艦隊各艦にはニュースが通達され、さらに休暇上陸後に国民から「陸奥が爆沈した」と教えられたと証言する戦艦「武蔵」乗組員もいる。呉でも「陸奥」爆沈の情報は確証を持って語られていたという。「陸奥」爆沈時の第一艦隊司令長官であった清水光美中将は責任をとらされる形で予備役に編入された。


<爆発の原因>

爆発事故直後に査問委員会が編成され、事故原因の調査が行われた。検討の結果、自然発火とは考えにくく、直前に「陸奥」で窃盗事件が頻発しており、その容疑者に対する査問が行われる寸前であったことから、人為的な爆発である可能性が高いとされる。1970年(昭和45年)9月13日発行の朝日新聞は四番砲塔内より犯人と推定される遺骨が発見されたと報じ、この説は一般にも知られるようになった。だが、真相は未だに明確になっていない。謎めいた「陸奥」の最期は、フィクションの題材にもなった。この他、爆発の原因はスパイの破壊工作、三式弾の自然発火による暴発、また、上記時人為的爆発の背景としては、乗員のいじめによる自殺や一下士官による放火などが挙げられている。
三式弾の自然発火は原因調査前に最も疑われた事故原因のひとつだったが、「陸奥」の隣に碇泊していた「扶桑」の艦長であった鶴岡信道大佐以下、目撃者は爆発直後に発生した爆発煙を、ニトログリセリンと綿火薬が主成分の主砲弾用九三式一号装薬によるものだったと述べ、原因調査の際に行われた目撃者に対する火薬煙の比較確認実験でも、同様の証言が残されている。事故後の調査実験でも、三式弾の劣化等による自然発火は発生しないことが判明した。
更にもうひとつの意見として大高勇治(第七駆逐隊司令部付通信兵)による爆雷誤爆説がある[38]。「陸奥」爆沈の約1年半前の1941年(昭和16年)12月30日、対潜水艦哨戒出撃準備中の駆逐艦「潮」は起爆点を水深25メートルにセットしたたまの爆雷1個を陸奥爆沈地点に落とした。その際は爆発せず、引き上げられもせず放置された。落とした事実は上級士官に報告されなかった。この付近は水深25メートル前後であり、「陸奥」移動時のスクリューの回転により何らかの波動が発生して爆雷が爆発したのが陸奥沈没の原因であると結論づけている。大高は人為説に対して、戦艦の弾薬庫管理は厳重であること、鍵は当直将校が首にかけていること、弾薬庫には不寝番衛兵がいることなどを指摘し、仮に陸奥の艦長が敵国のスパイであったとしても、火薬庫に侵入・放火することは不可能だとして否定的である。「長門」副砲手として「陸奥」の沈没を目撃した田代軍寿郎(海軍一等兵曹)も、弾火薬庫常備鍵を持った陸奥副直将校が鍵箱ごと遺体で回収されたこと、予備鍵は艦長室にあることを理由に挙げ、弾薬庫不審者侵入説を強く否定している

<お勧め動画>

戦艦「陸奥」、「伊勢」、「山城」




姉妹艦戦艦長門




Imperial Japan Navy Battleship "Nagato" color video



公開日: 2013/03/04
大日本帝国の戦艦長門のカラー映像。戦後、米軍に接収され原爆実験前とおもわれる映像が中心。
IJN battleship Nagato color video



<お勧めHP>
戦艦陸奥引揚解体写真集(貴重な写真がたくさん収納されています)
http://navgunschl2.sakura.ne.jp/photo/mutsu/mutsu.html

戦艦陸奥(陸奥について非常に分かり易くまとめられたHPです)
http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/ren-mutu.htm

カラー写真の引用HP(陸奥以外にも着色された軍艦がたくさん収納されています > 必見)
http://blog.livedoor.jp/irootoko_jr/archives/850162.html


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