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旧海軍史跡巡り<軍艦「摂津」> [歴史探訪]

第13弾として軍艦「摂津」を取り上げてみます。
摂津は歴史ある艦で、1914年には連合艦隊旗艦も努めています。
そして特に有名なことは、ワシントン軍縮会議で廃艦となりそうな「陸奥」を守るため自ら犠牲になったと言うことです。その話のついでに、外された主砲は対馬の要塞に据え付けられ海峡ににらみをきかせていたという話も結構有名です。

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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%82%E6%B4%A5_(%E6%A8%99%E7%9A%84%E8%89%A6)

摂津(せっつ)は、日本海軍の戦艦。河内型戦艦の2番艦である。後に標的艦となった。駆逐艦「矢風」によって遠隔操作される無人艦というのが一般的に知られている。艦名は旧国名「摂津国」にちなんで命名され、日本海軍の艦船としては「摂津艦」に続いて2代目。

1909年1月18日起工。1911年3月30日に進水、1912年7月1日に竣工した。建造は呉工廠。
本艦は、30センチ砲連装6基12門と砲力は強力に見える。しかし、実際は主砲を亀甲型に配置したため、右、又は左舷に砲を撃つとき反対舷の砲が使用できず、そのうえ前後の砲2基が50口径、中央舷側の4基が45口径と射撃指揮に問題がでるものであった(東郷平八郎が「前後の砲はより強化すべし」と言ってそのようにさせたという)。戦闘への参加は無かったが、第一次世界大戦にも参加している。

「標的艦」摂津
1923年10月1日のワシントン海軍軍縮条約により、戦艦「陸奥」を保有する代わりに、摂津は退役させられることとなった。主砲や装甲など戦闘艦としての装備を全廃し、標的艦に改装された。なお、12センチ砲1門が福岡県の香椎宮に寄贈され、いまなお保存されている。標的艦となった当初の本艦は、自身が標的となるのではなく標的となる目標を曳航するのが任務であった。
1923年、ドイツが軍艦を無線操縦する技術を開発したと伝えられると、日本海軍もそれを研究し、1928年に無人操縦装置の試作機完成。実験の上摂津に搭載することとなったが、この時は本格採用されず、すぐに予備艦となり呉軍港に長らく係留された。

爆撃標的艦への改造
ワシントン軍縮条約失効後の1937年、本格的な無人操縦装置を取り付け、摂津自身を爆撃訓練の標的とする標的艦に改造された。すなわち駆逐艦矢風を操縦船とし、10キロ演習用爆弾の高度4000メートルからの投下に耐えられるよう甲板・艦橋・煙突等の防御を強化した。速力が求められないため第2ボイラーを休止し、3本あった煙突のうち第2煙突を撤去した。残った2つのボイラーを換装し少しでも速力低下を防いだが、速力は20ノットから16ノットに低下した。

1940年の改造[編集]
その後1939年から1940年にかけて重巡クラスの砲撃訓練、及び航空機の雷・爆撃訓練を航空機側のみならず操艦側の回避訓練にも使用可能なように防御がさらに強化された。すなわち10キロ演習爆弾の高度6000メートルからの投下、30キロ演習爆弾の高度4000メートルからの投下、射距離22000メートルからの20センチ演習砲による砲撃、射距離5000メートルからの5センチ演習砲による砲撃などに耐えられるよう、軍縮条約によって取り外していた側装甲を復活し、甲板の防御をさらに強化した。回避操船訓練のため速力が求められるため、休止していた第2ボイラーを換装し第2煙突を復活させ速力は17.4ノットに向上した。艦橋安全区画からの着弾観測の妨げにならないよう第一煙突の高さが短縮された。

この強化の結果、安全距離以内に近づいて艦船の砲撃や爆撃訓練を行うことが可能になった。この改装で特に航空機部隊の練度や艦長の操艦技術向上に繋がり、大戦初期の戦果向上の一助となる。(摂津艦長時代に航空攻撃回避術を研究、後の捷一号作戦で第四航空戦隊司令官として、激しい米軍機の攻撃から指揮下の「日向」「伊勢」を無事生還させた松田千秋が特に有名)

なお摂津及び「矢風」を初めとする標的艦やそれに従事する艦には、煙突部分に算盤玉のようなキャップが装着された。これは砲弾や爆弾が開口部から進入し、機関を破壊するのを防止するための装甲化された覆いである。排煙はキャップと開口部の隙間から出るようになっていた。

その後
開戦後も(任務の性格から当然ではあるが)特に日本周辺から離れることはなく呉を母港として過ごしたが、1945年7月24日アメリカ軍機による呉軍港空襲を受け大破着底、そのまま終戦を迎える。1945年11月20日除籍。


艦長
田中盛秀 大佐:1911年12月1日 - 1912年12月1日 *兼呉海軍工廠艤装員(- 1912年7月1日)
山中柴吉 大佐:1912年12月1日 - 1913年12月1日
木村剛 大佐:1913年12月1日 - 1914年12月1日
永田泰次郎 大佐:1914年12月1日 - 1915年12月13日
川原袈裟太郎 大佐:1915年12月13日 - 1916年12月1日
本田親民 大佐:1916年12月1日 - 1917年12月1日
犬塚助次郎 大佐:1917年12月1日 - 1918年11月10日
内田虎三郎 大佐:1918年11月10日 - 1919年6月10日
古川弘 大佐:1919年6月10日 - 11月20日
今泉哲太郎 大佐:1919年11月20日 - 1920年6月3日
横尾尚 大佐:1920年6月3日 - 11月20日
武光一 大佐:1920年11月20日 - 1921年11月20日
小山田繁蔵 大佐:1921年11月20日 - 1922年11月10日
(兼)松平保男 大佐:1922年11月10日 - 1923年1月20日
武富咸一 大佐:1923年1月20日 - 10月1日
特務艦長武富咸一 大佐:1923年10月1日 - 11月20日
松本匠 大佐:1923年11月20日 - 1924年12月1日
右田熊五郎 大佐:1924年12月1日 - 1925年4月20日
瀬崎仁平 大佐:1926年12月1日 - 1927年9月28日
千谷定衛 大佐:1929年11月30日 - 1930年12月1日
水崎正次郎 大佐:1935年4月18日 - 11月15日
左近允尚正 大佐:1936年12月1日 - 1938年7月20日
鈴木長蔵 大佐:1938年7月20日 - 1939年11月15日
(兼)原田覚 大佐:1939年11月15日 - 1940年3月10日
小暮軍治 大佐:1940年3月10日 - 11月1日
(兼)伊崎俊二 大佐:1940年11月1日 - 11月28日
森徳治 大佐:1940年11月28日 - 1941年9月1日
松田千秋 大佐:1941年9月1日 - 1942年2月10日
石井敬之 大佐:1942年2月10日 - 5月20日
島本久五郎 大佐:1942年5月20日 - 10月1日
長井満 大佐:1942年10月1日 - 1943年2月2日
長谷真三郎 大佐:1943年2月2日 - 4月12日
佐藤勝也 大佐:1943年4月13日 - 6月25日
三浦艦三 大佐:1943年6月25日 - 8月4日
相馬信四郎 大佐:1943年8月4日 - 1944年8月10日

<初代摂津艦>
日本海軍の軍艦。艦名は摂津国から採られる。日本海軍での1874年以降の正式艦名は「摂津艦」であるが、通常は摂津と記述される。
幕末に購入、艦歴の後半では主に練習船として使用された。
本艦の元は汽船「コヤホッグ」で、三檣シップリッグ砲艦。アメリカで建造され、南北戦争の際には北軍で使用されていた。慶応4年6月(1868年7月から8月)に外人から購入、同年(9月8日より明治に改元)12月(1869年1月から2月)に摂津丸と命名された。翌明治2年(1869年)に広島藩に貸与されている。
1870年(明治3年)7月に普仏戦争が勃発し、その防備のために兵庫港に派遣された。
明治4年(1871年)広島藩から返還、9月18日(1871年10月31日)に一番貯蓄船(いちばんちょちくせん)と改名、11月15日(1871年12月26日)には五等艦と定められ、翌年に機関が撤去された。
1874年(明治7年)に摂津(艦)と改名、四等艦とされ、海軍省内堀に係留され練習艦として使用された。1876年(明治9年)11月より横浜で貯蓄船とされ、1878年(明治11年)12月以降は兵学校練習船に指定された。
1886年(明治19年)2月17日に除籍されたが兵学校授業船として引き続き使用された。1888年(明治21年)に兵学校が東京築地から広島県江田島に移転となり、本船は売却された。




就役:1912年7月1日
その後:1945年7月24日戦没
除籍:1945年11月20日

排水量:基準:21,443 t、標的艦時:20,650t
全長:160.6m
全幅:25.6 m
吃水:8.5 m
機関:宮原式石炭・重油混焼水管缶16基、+ブラウン・カーチス式直結タービン2基2軸推進
最大出力:25,000hp
最大速力:20ノット(37 km/h)、17.4ノット(標的艦時)
燃料:石炭:2,300トン、重油:400トン
乗員:986名

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初代の摂津

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陸奥を守るため武器を外すことになりましたが、ここに奉納されたと言うことは摂津の鎮魂のため良かったことと思われます。これは、香椎神宮に奉納されてる「摂津」の12糎砲身です。


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ヘリコプター1機搭載型巡視船「つがる」型 PLH-07 ヘリコプター搭載巡視船せっつ


現在の摂津です。頼もしくなって活躍中です。
磐手とか長門、大和、武蔵などは近隣の国に気を遣ったのか現役の艦船の名前には使用されていません。そう考えると、陸奥を守るため手足をもがれましたが、標的艦になって終戦近くまで現役を続けて子孫?が活躍するという、恵まれた艦といえます。

http://www.vspg.net/jcg/plh07.html

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