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旧海軍史跡巡り<軍艦「利根」> [歴史探訪]

夏休みを利用して、広島呉、江田島地区の海軍の史跡巡りを計画しました。今回のテーマは、呉軍港周辺で沈没した軍艦です。
今頃なぜこんなテーマで調べることになったのかというと、先日の8月6日に海上自衛隊のヘリ空母「いずも」が横浜の造船所で進水式を迎えました。このヘリ空母は「ひゅうが」、「いせ」につづくもので3艦目の船となります。何気なくネットで調べてみるとこの同名の艦は旧海軍の軍艦にも名付けられており、偶然呉軍港の周辺で沈没し終戦を迎えたことが判明しました。そこで今回は、新生日本のため最後まで戦い抜いて沈んでいった鎮魂の場所を訪ねてみることにしました。


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第三弾として軍艦「利根」を取り上げてみます。
「利根」は江田島湾内の旧海軍兵学校の対岸に係留されていました。

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堂々たる姿です。昔結構ファンがいたようです。


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アメリカ軍用機による攻撃


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悲しい姿となってしまいました。

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軍艦利根資料館

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利根公園

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慰霊碑

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慰霊碑の文字は郷土が誇る大政治家「灘尾弘吉 ※」先生の筆によるものです。

※灘尾 弘吉(なだお ひろきち、1899年(明治32年)12月21日 - 1994年(平成6年)1月22日)は、昭和時代の日本の官僚、政治家。衆議院議長(60・61代)、文部大臣(74・75・77・82・83・90代)、厚生大臣(41代)を歴任。
1899年12月21日広島県佐伯郡大柿町(現・江田島市)に生まれる。灘尾家は農業の傍ら、木綿の製造・醤油醸造を営んでいた。父の灘尾夫子俟(なだお ふじまつ)は、早稲田大学の講義録で独学した後、政治に興味を持ち、地元で村会議員、町会議員、村長を務めた。
灘尾は、折り紙付きの秀才で、小、中学校では、まれに見る神童と呼ばれ、旧制広島一中、旧制一高、東京帝国大学法学部を首席で卒業した。一高時代は、皇太子裕仁親王(のちの昭和天皇)がヨーロッパ訪問の際、一高校旗の旗手を務め見送りの学生の先頭に立った。

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広島方面を望む。写真右には、国民宿舎「能美ロッジ」が建設されている。

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この方角に「利根」が係留されていたものとおもわれる。
この方角には江田島市役所(旧能美町役場)や中町港が望まれる。

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利根 (重巡洋艦)

ウィキペディア・利根 (重巡洋艦)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%A9%E6%A0%B9_(%E9%87%8D%E5%B7%A1%E6%B4%8B%E8%89%A6)


利根(とね)は、日本海軍の重巡洋艦で、利根型重巡洋艦の1番艦。艦名は二等巡洋艦の命名慣例に従って、関東地方を流れる利根川にちなんで名づけられた。この名を持つ日本海軍の艦船としては2隻目。艦前部に主砲塔4基を集中し、後部を飛行機発進甲板・水上偵察機待機所とした、第二次世界大戦当時としては珍しい艦型である。航空巡洋艦として、艦隊の索敵を担当した。

就役:1938年11月20日
喪失:1945年7月28日艦載機の攻撃で大破着底、戦後解体
享年:7歳

1942年6月、「利根」はミッドウェー海戦に参加。この時はカタパルトが故障し偵察機の発進が30分遅れ日本海軍敗北の一因となったとされていたが、後の研究で、発進が遅れたからこそ米艦隊を発見できたのであり、定時に発進していたらかえって発見できなかった可能性が高いと言われている。
その後ソロモン諸島方面で第二次ソロモン海戦や南太平洋海戦に参加。
レイテ沖海戦後、舞鶴に帰還して損傷箇所の修理と機銃の増設を行い、呉に回航。1945年3月19日、海軍兵学校練習艦として呉にて停泊中米第58任務部隊による空襲を受けて損傷。海軍兵学校と江田島湾を挟んでちょうど対岸にあたる能美島の海岸付近に移動。7月24日、第38任務部隊によって再度空襲を受け損傷(呉軍港空襲)。7月28日にも再度空襲を受け、アメリカ軍艦載機の空襲により爆弾6発を受ける。対岸の海軍兵学校などからも応援を呼んでダメージコントロールに努めたが、その甲斐も無く翌日になって大破着底し、終戦を迎えた。
戦後まもなく調査と引き上げが行われ、鉄不足解消のために1948年までにスクラップとなった。
現在、能美島(江田島湾)の利根の着底した場所付近には、慰霊碑が建てられている。また、慰霊碑に隣接して、「軍艦利根資料館」があり、利根の舵輪、副碇、信号燈、コンパスなどの遺品(装備品)や精密なミニチュア模型などが展示されている。


考察
手元の図書には、以下のような記述がある。 ・真珠湾攻撃では利根から発艦した偵察機が最初に真珠湾の様子を伝えた ・ミッドウェー海戦では利根の偵察機の遅れが歴史的敗北のきっかけとなった。 それに反して、ウィキペディアでは、以下のように記載されている ・1942年6月、「利根」はミッドウェー海戦に参加。この時はカタパルトが故障し偵察機の発進が30分遅れ日本海軍敗北の一因となったとされていたが、後の研究で、発進が遅れたからこそ米艦隊を発見できたのであり、定時に発進していたらかえって発見できなかった可能性が高いと言われている。 歴史に「もし」はあり得ないが、個人的には「発進が遅れたからこそ米艦隊を発見できた」のであって、もし時間通りに出発していればアメリカ艦隊を発見できなくて探索能力に優れたアメリカ艦隊によりもっと悲惨な大敗を喫していたことも考えられる


軍艦利根資料館
http://www.kankou.pref.hiroshima.jp/etajima/spot/0007.html

太平洋戦争末期、江田島湾奥に避難停泊していた重巡洋艦「利根」は、昭和20年7月24日から米軍機大編隊の襲撃を受け、乗員128名の戦死者を出し、28日夕刻トトウガ鼻沖に擱座しました。この空襲では、町内の被害も甚大でした。昭和40年3月「慰霊碑建設委員会」を結成し生存者や遺族も参画して、慰霊碑を建立、同年7月25日第1回慰霊祭を行いました。以後、保存会を結成し、碑の周囲一帯を「利根公園」とし、昭和62年8月に「軍艦利根資料館」を建設しました。




旧帝国海軍:軍艦利根資料館
http://www.akinokuni.jp/g/200905tone.html

利根は昭和13年(1938年)11月20日に三菱長崎造船所で竣工しました。2連装4基8門の主砲をすべて艦首に配置し、艦尾に水上偵察機を多く搭載する独特のシルエットをしていました。また、その偵察能力と高速性から太平洋戦争時には機動艦隊と行動を共にしており、真珠湾攻撃時には空母艦載機による攻撃前に偵察を行なっています。ミッドウェイ海戦時には利根のカタパルト故障により偵察機の発進が遅れたことが大敗の一因となったと言われていることは、聞いたことがある人も少なくないのではないでしょうか。

生まれ変わった「利根」
http://www.mod.go.jp/msdf/formal/gallery/ships/dd/abukuma/img/234_01l.jpg

生まれ変わった「利根」.jpg

とね(ローマ字:JS Tone, DE-234)は、海上自衛隊の護衛艦。あぶくま型護衛艦の6番艦。艦名は利根川に由来し、この名を受け継いだ日本の艦艇としては、旧海軍の「利根」、利根型重巡洋艦「利根」に続き3代目にあたる。

「とね」は、中期防衛力整備計画に基づく平成元年度計画1,900トン型乙型護衛艦1234号艦として、住友重機械工業浦賀工場で、1991年2月8日起工、1991年12月6日進水、1993年2月8日に就役の後に佐世保地方隊第39護衛隊に配属された。

1997年3月24日に佐世保地方隊第26護衛隊に配属された。2008年3月26日に護衛艦隊直轄の護衛隊として第16護衛隊に編入される。

2011年3月16日付で、第16護衛隊が解隊され、第12護衛隊へ編入される。

現在は護衛艦隊第12護衛隊に所属し、定系港は呉である。





旧海軍史跡巡り<軍艦「榛名」「出雲」> [歴史探訪]

夏休みを利用して、広島呉、江田島地区の海軍の史跡巡りを計画しました。今回のテーマは、呉軍港周辺で沈没した軍艦です。
今頃なぜこんなテーマで調べることになったのかというと、先日の8月6日に海上自衛隊のヘリ空母「いずも」が横浜の造船所で進水式を迎えました。このヘリ空母は「ひゅうが」、「いせ」につづくもので3艦目の船となります。何気なくネットで調べてみるとこの同名の艦は旧海軍の軍艦にも名付けられており、偶然呉軍港の周辺で沈没し終戦を迎えたことが判明しました。そこで今回は、新生日本のため最後まで戦い抜いて沈んでいった鎮魂の場所を訪ねてみることにしました。

榛名、出雲 地図.jpg

第二弾として軍艦「榛名」「出雲」を取り上げてみます。

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連合艦隊戦艦「榛名」

ウィキペディア・戦艦榛名(小用沖で攻撃を受ける写真がある)
[http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A6%9B%E5%90%8D_(%E6%88%A6%E8%89%A6)]

榛名の艦名は、群馬県にある上毛三山の1つ、榛名山に由来する。
戦艦にも拘らず旧国名ではなく山岳名を持つ理由は、本艦を含む金剛型は当初「装甲巡洋艦」として計画されたため、一等巡洋艦の命名慣例に従ったものである。Japanese_battleship_Haruna_sunk.jpg
「榛名」が江田島小用港で大破着底し終戦を迎えました。

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アメリカの艦載機の攻撃を受ける「榛名」


最期

1945年(昭和20年)に入ると敗戦続く日本では艦船を運用する燃料にも事欠く状態となり、レイテ沖海戦を生き延びた本艦も修理を受けた呉で停泊するのみとなった。所属を呉鎮守府に移籍し、2月には呉鎮守府の警備艦となり、1945年3月19日、呉海軍工廠前(工廠内とも)に停泊中、ミッチャー中将率いる米第58任務部隊の艦載機による爆撃を受けたが、このときの被害は軽微だった。4月になって予備艦籍に入ると、マリアナ沖海戦後の改修で大幅に増設された対空火器や、副砲の大半及び対空指揮装置などを陸上防衛に転用のため撤去されてしまった。6月22日にB-29により直撃弾1発を受け、防空砲台となるべく呉の対岸・江田島小用沖に転錨、結果としてそこが最期の地となった。7月24日と28日の呉軍港空襲により今度はマッケーン中将率いる第38任務部隊による大規模な攻撃を受け、同様に燃料も無く為す術の無い状態の航空戦艦伊勢・日向や航空母艦天城らと共に停泊していた榛名は、2番砲塔の砲側照準による3式弾射撃などによって激しく抵抗を行ったものの20発以上の命中弾を受け浸水、大破着底した。このとき前部主砲や対空兵装の一部はなおも使用可能な状態であったというが、もはや本艦に戦う機会は無く、そのまま終戦をむかえた。なお、最期の姿は主砲塔などに縞状の迷彩を施し、艦橋には網を使ったカモフラージュを行っていたが、これらはほとんど意味を為さなかったと思われる。
1945年11月20日除籍、1946年5月2日浮揚解体作業着手、同年7月4日解体完了。
戦艦榛名は開戦時すでに艦齢26年の老朽艦であるにも拘らず最前線にあって主要海戦の多くに参加しており、しばしば損害を受けた。その姿は、開戦直前に完成して最前線での主要海戦でもほとんど損害を負うことが無く「幸運の空母」とも賞される空母瑞鶴と対照的であるが、この2艦は駆逐艦雪風などと共に「日本海軍の武勲艦」と評されることが多い。また日本戦艦で最も多くの海戦を生き延び、その終末を解体という形で迎えたことから、諸書には「戦艦榛名は戦後復興のための資材となった」旨の記述が多くみられる。



ユーチューブ・戦艦「榛名」


ユーチューブ・戦艦「榛名」(金剛級戦艦の美しさが表現されています。)

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軍艦榛名・出雲戦没者留魂碑
昭和20年3月の呉空襲を皮切りに、数度の空襲で攻撃を受け、ついに7月28日の空襲で江田島市江田島町小用沖で大破着底した戦艦榛名、また江田島市江田島町高須で攻撃を受け転覆した練習艦出雲(元・装甲巡洋艦)の合同戦没者慰霊碑です。

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軍艦「榛名・出雲」戦歿者留魂碑
大東亜戦争の末期 江田島町小用港沖に碇泊中の軍艦榛名 出雲の両艦は 昭和二十年七月二十四日二十八日の両日にわたり 米艦載機の執拗なる大空襲を受け ここに壮烈なる海空の戦闘が展開され 日本海軍の精華を遺憾なく発揮した
しかしながらこの戦闘において榛名七十一柱 出雲三柱の尊き戦没者を出したことは 誠に痛恨に堪えない
昭和四十一年二月より 中浜吾祐江田島町長を中心に是等悠久の大義に殉せられた護国の英霊を弔い これが武勲を永く後世に顕彰せんが為に 留魂碑建立の運動が進められ 江田島町の有志竝に海上自衛隊 元両艦の乗員更には御遺族等有縁の方々よりの浄財により 昭和四十二年五月六日両艦奮戦の古戦場を眼下に眺め得るこの地に建立された 題字は元文相灘尾弘吉先生の筆による
民族の興隆は栄ある歴史の伝統により推進せられる その歴史は殉国の人々の尊き生命の集積がその根幹となっていることを忘れてはならない
留魂碑保存会

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小用港方面です

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ちょうど正面には呉の「旧軍港」「旧海軍工廠」が望めます

はるな型護衛艦

はるな型護衛艦(はるながたごえいかん、英語: JMSDF DDH HARUNA class Destroyer)は、海上自衛隊が運用していたヘリコプター搭載護衛艦(DDH)。哨戒ヘリコプターを3機搭載できるという、当時の海上自衛隊で最有力の洋上航空運用能力を有しており、第3次防衛力整備計画(3次防)中の1968年(昭和43年)・1970年(昭和45年)度計画において各1隻が建造された。

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うまれかわった「はるな」

今回わかったことですが、DDH「ひゅうが」は、「はるな型(43/45DDH)」の後継艦だったのですね。ということは、海上自衛隊では榛名の後輩が「日向」「伊勢」でそのまた後輩が「出雲」ということになります。なんか不思議な運命を感じます。

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連合艦隊装甲巡洋艦「出雲」

「出雲」は帝国海軍の歴史を見つめてきた大変由緒ある軍艦です。
イギリスで誕生し、日本海海戦でバルチック艦隊と戦い、第一・二次世界大戦を経験し終戦後に除籍を迎えるという帝国海軍の歴史そのものを背負ってきた歴史を感じます。

日本の近隣諸国の中には、昨今国土を脅かす挑発を行うものがいます。こんな中、8月6日には国土を護衛するために非常に有用と思えるヘリ空母が進水しました。この艦の名前が「いずも」です。なんと心強い名前でしょうか、日本中の神様が一年に一度集うといわれる出雲大社(日本古来の最高神である大国主命を祭ってある)。これで尖閣諸島の有事の際は大丈夫でしょう。

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在りし日の凛々しい「出雲」


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江田島高須海岸で横転着底した「出雲」(米軍空中写真)



ウィキペディア・装甲巡洋艦「出雲」(日本海海戦にも参加した艦船)
[http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E9%9B%B2_(%E8%A3%85%E7%94%B2%E5%B7%A1%E6%B4%8B%E8%89%A6)]

出雲 (装甲巡洋艦)
就役:1900年9月25日
喪失:1945年7月24日戦没
享年:45歳

1900年9月25日:イギリス アームストロング・ホイットワース社にて竣工
1904年8月14日:蔚山沖海戦に参加
1905年5月27日~28日:日本海海戦に参加
1921年9月1日:一等巡洋艦に類別
1931年5月30日:海防艦に類別
1937年7月7日:第三艦隊旗艦になる
1942年:海防艦が軍艦から外される事に伴い類別を一等巡洋艦に戻される
1943年:この頃より、瀬戸内海で訓練に使用される
1945年7月24日:米艦載機の攻撃を受け転覆着底

艦長
 秋山真之 大佐:1910年4月9日 - 12月1日(1910年には「坂の上の雲」で有名な秋山真之大佐が艦長を務められています。)



発掘映像 日本海軍 巡洋艦出雲 長谷川清中将 



練習艦「出雲」の貴重な映像です。




「ひゅうが」超える海自最大の護衛艦『いずも』進水式

先代「出雲」は歴史があるすばらしい艦でしたが、生まれ変わった「いずも」は日本で大活躍が期待されているヘリコプター搭載自衛艦です。


人類にとって戦争は決して行ってはいけません。
どうすれば戦争しなくて良いのでしょうか?
答えは簡単です。「この国にちょっかい出すと痛い目に遭うので、近寄らないようにしよう」でしょう。

一軒家を考えてください。
被害を受けなくするためには、
・塀を高くして侵入者を防ぐ(自衛隊の装備を強化)
・セコムなどの警備会社と契約する(アメリカと仲良くする)
・防犯カメラと侵入センサーを設置(自衛隊のレーダーシステムを高度化する)
・手足の露出が多い無防備な格好で出歩かないで、できれば防弾チョックを着る
・自宅に拳銃と刃物を準備する
・貴重品を入れる耐火金庫を備える

「平和になれ」と唱え、「話し合いで解決」とわめき、「隣人皆兄弟」が原則、では国が滅びてしまいます。最近ようやく憲法改正の議論が始まりましたが遅すぎるくらいです。

しかし、軍事力を近隣諸国並以上に持つことは重要ですがそれ以上に大事なことは、外交交渉でしょう。あるときは仮想敵国の仲の悪い諸国と微妙なつきあいをしたり、国際機関の世論をうまく利用したり、相手にあることを伝えたい時には第3国を利用したり、理不尽な内政干渉を受けた時は曖昧にせずはっきりと筋を通すなど、基本に立ち戻った政治をしないといつまでたっても日本はなめられ通しです。


旧海軍史跡巡り<軍艦「大淀」> [歴史探訪]

夏休みを利用して、広島呉、江田島地区の海軍の史跡巡りを計画しました。今回のテーマは、呉軍港周辺で沈没した軍艦としました。
今頃なぜこんなテーマで調べることになったのかというと、先日の8月6日に海上自衛隊のヘリ空母「いずも」が横浜の造船所で進水式を迎えました。このヘリ空母は「ひゅうが」、「いせ」につづくもので3艦目の船となります。何気なくネットで調べてみるとこの同名の艦は旧海軍の軍艦にも名付けられており、偶然呉軍港の周辺で沈没し終戦を迎えたことが判明しました。そこで今回は、新生日本のため最後まで戦い抜いて沈んでいった鎮魂の場所を訪ねてみることにしました。

江田島地区の地図.jpg
この地図は呉軍港の周辺の地図です。
かなりの軍艦がこの周辺で沈んでしまったことが判明しました。

今回はまず最初に軍艦「大淀」を取り上げてみます。

大淀写真.jpg

連合艦隊最後の旗艦「大淀」

連合艦隊の旗艦といえばバルチック艦隊を打ち破った「三笠」が有名ですが、太平洋戦争開戦時以降では、戦艦「長門」、戦艦「陸奥」、戦艦「大和」、戦艦「武蔵」、と蒼々たる戦艦が続きました。そして、1944年5月4日に軽巡洋艦「大淀」が豊田副武大将の乗る連合艦隊旗艦となりました。その後は軍艦を連合艦隊の旗艦とすることはなく、横浜の日吉(慶応大学キャンパス)で終戦を迎えました。

転覆した大淀.jpg

その「大淀」が江田島湾の奥で大破着底し終戦を迎えました。


大淀(軽巡洋艦)
大淀(おおよど/おほよど)は日本海軍の軽巡洋艦。艦名は宮崎県下の最大河川である大淀川に由来する。大日本帝国海軍最後の連合艦隊旗艦でもある。昭和十四年度に着手された第四次軍備充実計画(通称マル4計画)により乙巡(阿賀野型軽巡洋艦)と共に丙巡として建造された。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B7%80_(%E8%BB%BD%E5%B7%A1%E6%B4%8B%E8%89%A6)

大淀の経歴

1941年(S16) 2月14日呉工廠にて起工
1942年(S17) 4月 2日進水
1943年(S18) 2月28日竣工
           7月10日~第3艦隊に所属、ラバウル・カビエン輸送作戦に従事
1944年(S19) 3月 6日~連合艦隊旗艦への改装工事を行う
           5月 4日~連合艦隊司令長官旗艦となる(~9月29日まで)
          10月20日~レイテ沖海戦に参加
1945年(S20) 7月24日江田島湾に停泊中敵機の攻撃を受け大破着底
          10月20日除籍。1947年引き揚げ後に解体

参照→ http://jahur.blogspot.jp/2008/03/5.html

この経歴を見ればわかるとおりこの船は数奇な運命をたどった事がわかります。
・軽巡洋艦として誕生
・連合艦隊旗艦となる
・燃料が不足し呉軍港周辺で停泊
・アメリカ軍機により横転着底
・引き上げられ「引き揚げ船」として改装
・引き上げが完了した後解体

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遠くに「旧海軍兵学校」と軍艦の名前の由来にもなった「古鷹山」が望めます。


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関係者の方がきれいに手入れをされています。遠くには旧海軍兵学校が望めます。

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「軍艦大淀慰霊碑」

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http://ameblo.jp/yamato0315/entry-10759909853.html

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現在では、江田島自動車学校やショッピングセンターがあります。

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http://mc-liners.main.jp/gunneta/gunneta08.htm
連合艦隊、最後の旗艦
、『大淀』は全長180m、排水量は9980㌧もあり、重巡洋艦の『古鷹』級(177m、8585㌧)よりも大きく、日本最大の軽巡洋艦でした。
『大淀』は元々潜水艦部隊の旗艦として設計・建造された艦で、その任務上必要な長大な航続力・通信等の旗艦設備・そして広大な太平洋戦域をカバーするための多くの水上偵察機を搭載出来ました。
しかし完成した1943年2月28日の時点で既に日本軍は太平洋戦域で劣勢になりつつあり、不毛な消耗戦を続けるガダルカナル戦域への輸送が、連合艦隊にとって最重要な任務となっていたのです。搭載予定の水上偵察機『紫雲』の開発に失敗した事もあって、その広大な格納庫を利用して『大淀』もこの輸送に従事する事になったのです。任務中の1944年1月1日にはカヴィエンの空襲で至近弾1を受けて小破しています。
その後、横須賀に戻った『大淀』は、『紫雲』運用のための大型カタパルトを通常の物に換装し、格納庫を連合艦隊旗艦用の司令部施設へと改装。1944年5月4日、『大淀』は豊田副武大将の乗る連合艦隊旗艦となるのです。
さて、アメリカ軍との一大決戦となったマリアナ沖海戦が1944年6月に勃発します。『大淀』は出撃する事なく、木更津沖で連合艦隊旗艦として遥か南方で行われている決戦を督戦しますが、日本軍は主力空母3隻と、多くの艦載機を失って大敗してしまいます。
マリアナ沖海戦の敗北によって“絶対国防圏”と謳って来たサイパン・グアムが失陥し、日本本土にまでアメリカ軍の空襲が行われるようになると「浮いている艦に司令部を置くのは危険」と判断されるようになります。
結果、1944年9月29日に『大淀』は連合艦隊旗艦の任を解かれます。その後連合艦隊司令部は艦上に司令部を置かず、神奈川県日吉の慶応大学予科の地下室に移ったのです。
既に太平洋戦線の帰趨は決していましたが、連合艦隊の総力を挙げた最後の大決戦の場が訪れます。1944年10月、フィリピン・レイテ島に上陸したアメリカ軍を叩く『捷一号作戦』です。
『大淀』に与えられた任務は、レイテに突入してアメリカ軍を叩く役割ではなく、アメリカ軍の強力な空母機動部隊を誘き寄せて、『大和』『武蔵』らがレイテに突入するのを助ける囮空母部隊の護衛でした。
もはや戦局を覆すための作戦もなく、燃料すらなくなった『大淀』は広島県呉沖に停泊して無為な日々を過ごす事となりました。
1945年3月19日、アメリカ軍の艦載機が呉軍港を急襲。『大淀』も被弾し炎上、煙突に大穴を開けられます。
そしてとどめを刺されたのが7月24日と28日の呉空襲。身動きの取れない『大淀』は機関室・ボイラー室等に計8発の直撃弾と無数の至近弾を受けて浸水、遂に横転してしまったのです


司令部はどこにあるべきか?
艦隊司令部は通常、旗艦に設置される。よって連合艦隊司令部もその創設以来旗艦に司令部を設置していた。しかし太平洋戦争末期になって司令部設置箇所を巡り論争が起きた。

その原因は連合艦隊司令長官の指揮範囲を拡げ過ぎたことにある。明治時代の連合艦隊司令長官は原則として純粋な戦闘部隊のみを指揮下に置いていた。しかし時が経つにつれて名声が高まり、軍令を司る軍令部長(職制上は連合艦隊司令長官の上官)と並び称されるほどになった。それに加え連合艦隊司令長官の地位が単なる戦闘指揮官ではなく海上作戦全般の総指揮官という意味も帯び始め、補給部隊や基地航空隊、鎮守府なども指揮下に入るようになった。こうなると多くの司令部人員の増加が必要となり、居住及び勤務空間の確保や無線設備の増強など海上の一艦にあって総指揮をとることが何かと不都合になってきたのである。実際、当時の米海軍太平洋艦隊司令部はハワイ(太平洋戦争開戦前にサンディエゴより移動)にあり、陸上から指揮をしていた。よって司令部上陸論ともいうべき主張が司令部内でされるようになった。

そのためか太平洋戦争において、連合艦隊旗艦が作戦行動を起こしたのはミッドウェー海戦のみであり、しかも日本海軍最強の大和型戦艦である旗艦・大和は機動部隊のはるか後ろを航行していたため戦闘には参加していない(これには相変わらずの大艦巨砲主義による海上決戦思想に基づく戦艦温存策という面もあった)。

それに対し反対論も根強かった。海軍には「指揮官先頭、率先垂範」という伝統があった。また日本海海戦では東郷平八郎司令長官が旗艦三笠の艦橋先頭に立ち、戦闘中微動だにせず海戦終了後東郷長官の足跡がくっきりと残っていたという実話もある。「司令長官とはそうあるべきもの」という観念が海軍の中では確固たるものとしてあった。安全な後方(陸上)から指揮を受けるなど考えたくもなかったと思われる。

しかし、昭和19年(1944年)に入りいよいよ戦争範囲は拡大しつつも敗勢が濃くなり、連合艦隊司令部は豊田副武大将の連合艦隊司令長官就任と共に、旗艦を収容能力と通信設備を併せもつ軽巡洋艦大淀に移し、しかも単艦で木更津沖に碇泊させた。これは現在米軍などに見られる指揮専用艦の先駆けであったが、当時の司令部にそんな意識などはあるはずもなく、単なる妥協策であった。しかしマリアナ沖海戦でマリアナ諸島が占領されると本土空襲が現実となり、フィリピン方面へ米軍の攻勢が切迫してくると、ついに同年9月末に日吉台の慶應義塾大学構内(現:日吉キャンパス、参照:日吉寮)の地下防空壕に移ってしまった。ここにおいて連合艦隊旗艦及び第一艦隊は消滅した。


歴代旗艦

防護巡洋艦「松島」
戦艦「三笠」
戦艦「敷島」
戦艦「朝日」
戦艦「金剛」
戦艦「山城」
戦艦「長門」
戦艦「陸奥」
戦艦「大和」
戦艦「武蔵」
軽巡洋艦「大淀」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%A3%E5%90%88%E8%89%A6%E9%9A%8A


連合艦隊


連合艦隊の発展がよくわかる動画です。
この動画の中に今回の特集に関係する軍艦が多く出てきます。


生まれ変わった「大淀」
http://www.mod.go.jp/msdf/formal/gallery/ships/dd/abukuma/img/231_01l.jpg

231_01l(防衛省).jpg

おおよど(ローマ字:JS Oyodo, DE-231)は、海上自衛隊の護衛艦。あぶくま型護衛艦の3番艦。艦名は大淀川に由来し、この名を受け継いだ日本の艦艇としては、旧海軍の「大淀」に続き2代目にあたる。

「おおよど」は、中期防衛力整備計画に基づく昭和62年度計画1,900トン型乙型護衛艦1231号艦として、三井造船玉野事業所で、1989年3月8日起工、1989年12月19日進水、1991年1月23日に就役の後に佐世保地方隊第34護衛隊に配属された。

1992年6月20日に佐世保地方隊第39護衛隊に所属、1997年3月24日に佐世保地方隊第26護衛隊に配属された。2008年3月26日に護衛艦隊直轄の護衛隊として第16護衛隊に編入される。

2011年3月16日付で、第16護衛隊が解隊となり第15護衛隊へ編入。

2012年9月21日、ウラジオストク港とその周辺海域で実施される日露捜索・救難共同訓練に参加するため出航し同月23日にウラジオストク港に入港、「DD-109 ありあけ」と共に同月26日に訓練を実施し、同月28日に帰港する[1]。

現在は護衛艦隊第15護衛隊に所属し、定系港は大湊である。





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