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旧海軍史跡巡り<軍艦「日向」> [歴史探訪]

夏休みを利用して、広島呉、江田島地区の海軍の史跡巡りを計画しました。今回のテーマは、呉軍港周辺で沈没した軍艦です。
今頃なぜこんなテーマで調べることになったのかというと、先日の8月6日に海上自衛隊のヘリ空母「いずも」が横浜の造船所で進水式を迎えました。このヘリ空母は「ひゅうが」、「いせ」につづくもので3艦目の船となります。何気なくネットで調べてみるとこの同名の艦は旧海軍の軍艦にも名付けられており、偶然呉軍港の周辺で沈没し終戦を迎えたことが判明しました。そこで今回は、新生日本のため最後まで戦い抜いて沈んでいった鎮魂の場所を訪ねてみることにしました。


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第五弾として航空戦艦「日向」を取り上げてみます。
「日向」は倉橋島の近くにある情島の近くに係留されていました。

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昨年の5月に音戸公園から撮影した良い写真があったので使用します。

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航空戦艦に改装前の勇姿です。

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航空戦艦に生まれ変わってからの写真は軍事機密であったのか良い写真が見当たりませんでしたので、模型の写真を借用します。
引用HP:http://angel.ap.teacup.com/stylephoto/1057.html

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%90%91_(%E6%88%A6%E8%89%A6)
日向(ひゅうが、当時の艦名表記は旧仮名遣いでひうが)は、大日本帝国海軍の戦艦で伊勢型戦艦の2番艦。太平洋戦争中盤、航空戦艦に改造されたが、「航空戦艦」という呼称は便宜上のものであり、正式な艦籍は戦艦のままであった。艦名の由来は宮崎県の旧国名からで、艦内神社は宮崎神宮からの分神。この艦名は帝国海軍ではこの艦のみで、戦後、海上自衛隊の護衛艦「ひゅうが」に引き継がれた。

就役:1918年4月30日
喪失:1945年7月24日呉軍港空襲により大破着底
終戦後に解体
享年:33歳


艦歴
「日向」は三菱合資会社三菱造船所(現・三菱重工長崎造船所)で1915年(大正4年)5月6日に「第六号戦艦」として起工[2]。東伏見宮依仁親王立会いのもと1917年(大正6年)1月27日に進水、1918年(大正7年)4月30日、「軍艦 日向」として就役した。
扶桑型戦艦の4番艦として着工の予定が財政事情により大幅に遅れたため、扶桑型の欠点を改善し主砲の位置が変更されている。だが完成時には、38cm砲を搭載したクイーン・エリザベス級戦艦が既に英国で就役していた。歴代艦長には、後に連合艦隊司令長官として捷一号作戦等を指揮した豊田副武や、航空戦艦改装案を推進し、後に第四航空戦隊司令官として「日向」に深く関わることになる松田千秋をはじめ、宇垣纏・西村祥治など、戦史上重要な人物が多く名を連ねている。
竣工後、第一艦隊第一戦隊に配備、最新鋭の戦艦として、「長門」竣工まで連合艦隊旗艦を務める。1940年(昭和15年)6月22日から7月10日にかけて、満州国康徳帝(愛新覚羅溥儀)訪日の際の座乗艦としても使用された。太平洋戦争開戦時は、「伊勢」と共に第一艦隊第二戦隊にあり、その戦隊旗艦を務めた。

航空戦艦「日向」
空母戦力を補填すべく、日本海軍は扶桑型戦艦と伊勢型戦艦の空母改装を決定した。だが時間的都合から扶桑型の改装は実施されず、伊勢型も全面空母改装は見送られ、後部の5番、6番の主砲を撤去して格納庫及び飛行甲板を設け、航空戦艦となった。重量軽減のため、副砲の50口径三年式14cm砲を全て撤去した。副砲は陸上砲台に転用され、呉鎮守府第六特別陸戦隊重砲隊が編成されている。ただし、通常の空母の半分以下の長さしかない飛行甲板では艦載機の着艦はできない。飛行甲板はもっぱら航空機整備・発艦作業用のスペースである。撤去された主砲弾薬庫の空間には、航空機用燃料と武器庫が設けられた。「日向」を擁する第四航空戦隊に配備される予定の第六三四海軍航空隊は、水上偵察機「瑞雲」と艦上爆撃機「彗星二二型」を主力とする部隊で、「日向」には彗星14機・瑞雲8機が配属される予定であった]。カタパルトで射出された彗星は攻撃後機体を消耗して空きのできた他空母や、近隣の陸上基地へ着陸するという運用が想定されていた。

終焉
北号作戦を終えた「日向」は呉軍港に停泊していたが、3月1日に第一予備艦に指定され、直後の3月19日の呉軍港空襲で爆弾3発(二番砲塔左舷後部、左舷缶室、艦後部)が命中した。損傷を受けた「日向」は4月20日に第四予備艦に指定され、5月1日に特殊警備艦となり、呉港外(情島沖)で浮砲台となった。7月24日の呉軍港空襲で米軍空母機の波状攻撃を受け、艦長草川淳予備少将(戦死後中将)も戦死する。この年7月の時点で乗組員のうち約半数が退艦していたが、これらの攻撃による乗組員の被害は、残存乗組員千余名中戦死者204名、重軽傷者600余名に及んだ。7月26日、「日向」は水平状態で着底した。

理想と現実 ~戦艦伊勢・日向~http://www.ne.jp/asahi/kkd/yog/gf4_7.htm

巨大な主砲を搭載し、いかなる攻撃をも跳ね返す鉄の城、戦艦。
搭載される艦載機により、戦艦の主砲以上の遠距離から自由自在な攻撃を可能にした空母。
それらの能力を一つにまとめられた時、それこそが最強の洋上兵器となるであろう。
近づく敵機を艦載機で叩き落とし、迫り来る敵艦をその強力な主砲でもって粉砕する。
放たれた敵弾は強靱な装甲がはじき返し、さらには艦載機による多種多様な戦術の展開等々――そんな少年少女達(少女?)の夢を具現化したような万能艦。
それこそが「航空戦艦」。

<略>

小沢提督率いる囮部隊に編入された彼女達は、空母瑞鶴、千歳、千代田の護衛として戦艦として参加。
そしてこの作戦が、彼女達にとってまともに参加する最初で最後の作戦でした。
昭和十九年十月二四日――
姉妹は揃ってフィリピン沖にて、ハルゼーの機動部隊が繰り出してきた約六百機もの大編隊を敵に回し熾烈な戦闘を開始しました。
結果的に守るべき空母は全て沈没の憂き目にあいましたが、元戦艦の頑丈な身体に対空兵装を極限まで強化した姉妹は最後まで奮戦。
自身は傷つくこともなく、二〇~三〇機の敵機を撃墜する事ができたと言います。

<略>

しかし結局の所、彼女達は戦艦として生まれたものの、中途半端な能力で時代に振り回されたと言わざるを得ない悲運の姉妹に過ぎませんでした。
己の身体を改造してまで生まれ変わったのは何のためだったのか?
経費も、時間も、人員も全てが無駄に終わった夢の艦種、航空戦艦――あまりにも空しく皮肉な結果です。
それでも彼女達の存在意義を見出すならば、こんな話があります。

 せっかく作った格納庫を使わない手はない。
そんな話が出たかどうか、彼女達は南方戦線への航空機輸送として用いられます。
しかし外地へ運ぶ航空機も無くなると、物資や燃料の輸送任務に就くようになりました。
輸送艦での輸送任務が絶望的な状況にあって、戦艦である彼女達で物資を輸送する方安全だったのです。
戦艦に輸送任務をやらせるなど、本来言語道断の出来事でありますが、巨費を投じながらも巨体を持て余していた彼女達に選択肢はなかったのでしょう。
昭和十九年十一月九日、マニラへの物資輸送任務を終わらせた姉妹は、シンガポールから航空燃料・ゴム・錫などを満載し内地へ向かって旅立ちます。
途中、何度も米潜水艦に付け狙われましたが、揃って無事内地に辿り着きました。
この時姉妹が持ち帰った航空燃料が、日本が外地から持ち込んだ最後の燃料でした
その後伊勢は、燃料もなくなり洋上を走ることもなく海上砲台として呉に停泊。
終戦間近の翌年昭和二〇年七月二四日。
米国軍機の猛攻撃を受けて、最期まで抵抗を続けたものの大破着底。
妹の日向もまた七月二八日の空襲で同じ運命を辿ります。
戦艦の攻撃力を持つ空母――そんな理想が生んだ幻。
日本神話の地、日向の国とその神話を奉る聖地、伊勢神宮の名前を冠した姉妹は、理想と現実の狭間で翻弄され儚く散っていった。


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着底後しばらくはしっかりしていたように見受けられます。

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このあたりの写真を見るとかなり傷んだ様子がうかがえます。



巨大な象は死期が近づいたら人(象)目がふれないところで死んでいき、死体をさらさないといいます。栄光の軍艦も本当はこんな風にさらされることは不本意であったでしょう。

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すばらしく生まれ変わりました。
引用:海上自衛隊HP


航空戦艦伊勢・日向から海上自衛隊・ヘリ搭載護衛艦いせ・ひゅうがへ
わかりやすい良くできた動画です。


旧海軍史跡巡り<軍艦「伊勢」> [歴史探訪]

夏休みを利用して、広島呉、江田島地区の海軍の史跡巡りを計画しました。今回のテーマは、呉軍港周辺で沈没した軍艦です。
今頃なぜこんなテーマで調べることになったのかというと、先日の8月6日に海上自衛隊のヘリ空母「いずも」が横浜の造船所で進水式を迎えました。このヘリ空母は「ひゅうが」、「いせ」につづくもので3艦目の船となります。何気なくネットで調べてみるとこの同名の艦は旧海軍の軍艦にも名付けられており、偶然呉軍港の周辺で沈没し終戦を迎えたことが判明しました。そこで今回は、新生日本のため最後まで戦い抜いて沈んでいった鎮魂の場所を訪ねてみることにしました。


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第四弾として航空戦艦「伊勢」を取り上げてみます。
「伊勢」は倉橋島にある音戸町(現呉市)の音戸大橋の近くに係留されていました。


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昨年の5月に音戸公園から撮影した良い写真があったので使用します。


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「伊勢」は堂々としたすばらしい戦艦です。


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試射中?交戦中?迫力ある写真です。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8B%A2_(%E6%88%A6%E8%89%A6)

伊勢(いせ)は大日本帝国海軍の戦艦。伊勢型戦艦の1番艦。艦名の由来は三重県の旧国名からで、後に海上自衛隊の護衛艦「いせ」に引き継がれた。
当初は扶桑型戦艦の3番艦として建造が予定されていたが、扶桑型に砲力や防御力、運用面等で問題点が生じたため再設計が行われ、準同型艦の伊勢型の一番艦として建造された。
太平洋戦争後半には戦術変更に伴って、姉妹艦の日向と共に後部主砲塔二基を撤去し、航空機用作業甲板、格納庫、射出機を設け、搭載機数22機という軽空母なみの航空打撃力を持つ航空戦艦へと改装された。
歴代艦長として山口多聞、古賀峯一といった後の著名指揮官も輩出した。

就役:1917年12月15日
喪失:1945年7月24日戦没
享年:28歳


艦歴

「伊勢」は1915年(大正4年)5月10日、川崎重工業神戸造船所で「第五号戦艦」として起工[2]。1916年(大正5年)11月12日に進水する[3]。1917年(大正6年)12月1日、「軍艦 伊勢」として就役した。
扶桑型戦艦の改良型として就役した本艦は、扶桑型の問題点の装甲防御の弱さを改正し、ようやく世界水準の性能に達したと言われる。
1941年(昭和16年)12月8日の太平洋戦争(大東亜戦争)開戦時、「伊勢」は第一艦隊第二戦隊に所属し、真珠湾攻撃を行った南雲機動部隊の損傷空母を収容するため、太平洋上に進出した。南雲機動部隊の奇襲は成功し、「伊勢」は予定を切り上げて12月13日に瀬戸内海に戻った。


航空戦艦への改装

ミッドウェー海戦で主力空母4隻を喪失した日本海軍は、空母の数を揃える必要にせまられた。軍令部は旧式の扶桑型戦艦と伊勢型戦艦の空母改造を検討し、「日向」が砲塔爆発事故を起こして五番砲塔を失っていたことから改装の手間が省けると判断、「伊勢」と「日向」の航空戦艦に改装を決定した。「伊勢」の工事は呉工廠で1942年12月に始まり、1943年9月に完了した。

終戦直前

「伊勢」は燃料不足のため「呉鎮守府第1予備艦(浮き砲台)」に指定され、燃料不足と米軍の機雷封鎖で行動不能な状態のまま呉港外三ツ子島(倉橋島北東、34゚12'N/132゚31'E)海岸付近の海面に停泊した。7月24日、米軍機動部隊艦載機による呉軍港空襲により艦橋に直撃弾を受け、牟田口艦長も戦死、浸水は5000tに達する。師岡勇高射長が艦長代理となり呉工廠第四ドックに曳航しようと作業中の7月28日、再び米軍艦載機の空襲により直撃弾11発を受けて大破着底、戦死者は573名に及んだ。終戦後、「伊勢」は引き揚げられてスクラップとなった。
なお、伊勢は呉空襲の際、日本海軍の歴史の中で日本の戦艦としては最後に主砲を発射した。

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アメリカ撮影の写真には「伊勢」と「日向」と「阿蘇」の姿が映っています。


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大日本帝国海軍戦艦の主砲が最後に火を噴いたのは、この写真に写っている主砲であるといわれている。


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戦後戦い尽くした最後の姿


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陸続きに見えるようにカムフラージュしていたようであるが、こんな事でアメリカの目はごまかせなかったようです。


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誠に痛々しい姿


めちゃくちゃに破壊されていますが、それでも美しい戦艦であった名残はたくさん残っています。
子供たちが遊んでいる姿が、何となくアンマッチしており何ともいえません。


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かつての係留場所は穏やかな海です。数十年前に世界に誇る大戦艦が大破着底した場所と気づいている人はごく少数でしょう。また、年配者が知っていたとしても敗戦に関する惨めなことは子供たちには伝えたくなかったと思います。つらくて惨めだった敗戦の傷跡は、できるだけ速く忘れ去りたかったのではないでしょうか


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よく見ると、「おおすみ」型の輸送船「しもきた」の姿が遠くに見えます。

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この地域で戦死した方々の霊を慰めるため、お地蔵様が設置されています。
ちなみにこの地域で被害にあった船は「伊勢」「天城」「葛城」が該当するのでしょうか。それから、民家も近いことから、一般住民の方も多く戦死された可能性があります。

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生まれ変わった「いせ」です。先代の「伊勢」は思った働きもできなく、最後は燃料が無くなり大破着底してしまい無残な姿をさらけ出してしまいました。そんな無念さを胸に秘め活躍して頂くよう期待しています
<引用:海上自衛隊HP>


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昨年の5月に呉軍港の「DD105 いなづま」を見学にいった時「いせ」を撮影したものです。大変大きくてどっしりとした迫力満点の艦です。

<おまけ> 「この世界の片隅に」のドラマの中に主人公の北条すず(北川景子)と北条周作(小出恵介)が呉湾の戦艦大和を眺めるシーンが出てきますが、このロケ地がちょうどこのあたりの山の上のようです。

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当時(昭和20年1月頃?)はこんな大和がひとりぽっちでたたずむような寂しい軍港ではなくもっとたくさんの軍用艦が浮かんでいたことでしょう。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%93%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AE%E7%89%87%E9%9A%85%E3%81%AB





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