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旧海軍史跡巡り<呉軍港周辺全般> [歴史探訪]

地図(呉周辺).jpg


<呉軍港空襲>
呉軍港空襲(くれぐんこうくうしゅう)は、太平洋戦争中、1945年の3月19日、7月24日、7月28日の三度に渡って行われたアメリカ海軍を中心とした連合国軍空母機動部隊航空隊による呉軍港および瀬戸内海西部への空襲作戦。なお、この空襲とは別に、呉市街地は7月1日深夜から2日未明にかけて戦略爆撃を受けている。

【概要】
3月19日はアメリカ海軍のマーク・ミッチャー提督の第58機動部隊約350機、7月両日はウィリアム・ハルゼー提督率いる第38機動部隊約950機による空襲。日本側は高角砲や艦艇の対空射撃により激しく抵抗を行ったがほぼ全ての艦が着底、航行不能などの被害を受けた。
3月19日の第58機動部隊に対しては松山基地の三四三航空隊が呉を攻撃中のアメリカ海軍艦載機を迎撃し58機(アメリカ海軍側の記録では14機)を撃墜した。更に、銀河が高知県沖に接近していたアメリカ海軍空母フランクリンを攻撃し大破させ、神風特攻により護衛空母及び駆逐艦1隻に損傷を与えた。7月24日の空襲では三四三航空隊が再び迎撃に向かい16機を撃墜。
一連の戦いで日本の乗組員約780人が戦死、約2000人が戦傷した。上記のように連合国軍にも大きな損失を与えたものの、工廠施設が破壊され、戦略爆撃の一環として瀬戸内海の要所にB-29から機雷を投下されたことから、呉軍港は母港としての機能を完全に失った。


GunkanHaichi319.jpg
3月19日の呉軍港に繫留されていた軍艦

【主な被害艦】

3月19日

戦艦
 • 榛名:小破
 • 日向:小破
 • 大和:軽微(※1)

航空母艦
 • 天城:小破
 • 葛城:軽微
 • 鳳翔:軽微
 • 海鷹:軽微
 • 龍鳳:小破
それ以外、川崎重工で建造中の生駒も小破する

巡洋艦
 • 利根:小破
 • 大淀:中破

潜水艦
 • 呂67:小破
 • 伊400:小破

(※1)戦艦大和についての詳細
1945年(昭和20年)3月19日、呉軍港が空襲を受けた際、敵機と交戦した。呉から徳山沖に退避したため、目立った被害はなかった。

同年3月28日、「次期作戦」に向け「大和」(艦長:有賀幸作大佐、副長:能村次郎大佐、砲術長:黒田吉郎中佐)を旗艦とする第二艦隊(司令長官:伊藤整一中将、参謀長:森下信衛少将)は佐世保への回航を命じられたが、米軍機の空襲が予期されたので回航を中止し、翌日未明、第二艦隊を徳山沖に回航させた。

3月30日に、アメリカ軍機によって呉軍港と広島湾が1,034個の機雷で埋め尽くされ、機雷除去に時間がかかるために呉軍港に帰還するのが困難な状態に陥る。関門海峡は貨物船が沈没して通行不能だった。


7月24日、28日

戦艦
 • 榛名:大破着底
 • 伊勢:大破着底(中甲板以下浸水)
 • 日向:大破着底(下甲板以下浸水)

航空母艦
 • 天城:転覆
 • 葛城:上甲板以上小破(飛行甲板大破孔)
 • 鳳翔:損傷
 • 龍鳳:損傷

巡洋艦
 • 磐手:7月24日大破、7月28日浸水擱座
 • 出雲:浸水擱座
 • 青葉:大破着底(船体切断)
 • 利根:大破着底(船体満水)
 • 北上:7月24日大破
 • 大淀:転覆

駆逐艦
 • 宵月:7月24日損傷
 • 梨:7月28日沈没
 • 樺:7月24日損傷

建造中の艦艇
 • 阿蘇:7月28日火災発生
 • 伊404:大破、機密保持のために自沈処分

呉軍港以外での被害
 • 摂津:7月24日大破着底(広島湾江田島大須海岸)
 • 海鷹:7月28日被爆[1](大分別府湾)
 • 駒橋:7月28日大破着底(三重県尾鷲港)
 • 萩:7月24日損傷(山口県祝島南方)
 • 椿:7月24日損傷(岡山沖)

引用:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89%E8%BB%8D%E6%B8%AF%E7%A9%BA%E8%A5%B2

呉周辺鳥瞰図.jpg
グーグルアースを使用して鳥瞰図を作ってみました。

DDH182 いせ.jpg
現在の呉です。DDH182 「いせ」が繫留されています

「軍都」呉の歴史

P1000422.jpg

(1) 戦前の呉鎮守府と呉海軍工
 呉浦が、平穏な村落から世界的な軍港へと変わっていったのは、1883年(明治16)に行なわれた海岸の調査によります。
 呉は軍港に最適地であるとされ、横須賀についで二つめの海軍鎮守府を置くことが決まり、1889年(明治22)、呉海軍鎮守府が開庁し、同時に造船部が開設されました。
その歴史を少しふりかえってみましょう。
1899年(明治32) 呉における最初の軍艦(通報艦)「宮古」が建造される
1907年(明治40) 日本最初の装甲艦(巡洋艦)「筑波」が建造される
        呉工廠製12インチ(約30cm)の、最初の国産主砲を搭載
        これによって呉工廠は横須賀を抜いて日本一と呼ばれるようになる
1909年(明治42) 船体鋼材全部が国産品の巡洋艦「伊吹」が建造される
1911年(明治44) 当時世界最大の戦艦「安芸」が建造される
1915年(大正4) 世界初の3万トン級の戦艦「扶桑」が建造される
1920年(大正9) 世界初の16インチ(約40cm)主砲搭載の戦艦「長門」が建造される
1941年(昭和16) 世界初の18インチ(約46cm)主砲など、日本海軍の技術を
        結集した巨大戦艦「大和」が建造される

 戦前、日本には四つの海軍鎮守府と、その管轄下にある海軍工廠が存在し、戦艦・空母などは呉と横須賀で、巡洋艦は佐世保で、駆逐艦は佐世保と舞鶴で、潜水艦は呉と横須賀で造る生産態勢ができあがっていました。
 その中でも、呉は瀬戸内海という波静かなところにあり、艦隊の訓練をする場所として適していたことから、呉海軍工廠では造船・造機・造兵・製鋼・礒装・検査・実験部など、機能強化が集中的に行なわれ、最新技術の導入が可能となりました。こうして新造艦艇の兵器と鋼鉄は、すべて呉から製造供給されるようになったのです。
 呉の工員の数が他の三海軍工廠の合計を越えていった過程は、「日本で初めて造られるもの」から、「世界で初めて造られるもの」へと、その能力を高めた形で表れ、呉海軍工廠は「東洋一」といわれるほどでした。

 軍事都市・呉の特色としてこの他、海軍の幹部を養成する場所であったこと、燃料など軍需物資の補給基地であったこと、乗組員の休養・補給基地であったこと、広島の第五師団とともに海外出兵の基地であったこと、同時に軍内部で反戦運動も行なわれたこと、そして「東洋一の兵器工場」の陰では、劣悪な労働条件に抗して労働運動も起こり、大規模なストライキや米騒動が発生したこと、などが挙げられます。

 呉が、空襲を受け、戦場にもなったり、原子爆弾を投下する候補地にもあげられていたのは、「東洋一の兵器工場」とともに、海外派兵のための出撃基地だったという背景があったからです。

「軍都呉の歴史関係年表」
1886(明19) 第2海軍区軍港を呉港に定む
1889(明22) 呉鎮守府閉庁.造船部、兵器部など設置
1894(明27) 日清戦争
1897(明30) 呉鉄道起工、造兵廠設置
1902(明35) 呉市制をしく、全国で54番目
1903(明36) 造船、造兵をあわせ呉海軍工廠設置、呉線開通
1904(明37) 日露戦争
1912(明45) 海軍工廠のストライキ
1918(大7)  シベリア出兵、海兵団出動
1920(大9)  呉海軍工廠広支廠開設
1931(昭6)  呉海軍航空隊開設、海軍軍縮で工員整理
          15年戦争(満州事変)開始
1934(昭9)  広第11空廠設置
1937(昭12) 日華事変、戦艦大和起工
1941(昭16) 潜水艦基地隊開設、太平洋戦争開始
1943(昭18) 呉市の人口40万4千人で最高
1945(昭20) 米軍機の呉空襲、5次の大空襲、8.6原爆投下、敗戦
          米軍上陸、呉に進駐(9.26)
1950(昭25) 朝鮮戦争勃発、再軍備開始、旧軍港市転換法の公布
1954(昭29) 海上自衛隊呉地方総監部を設置

引用:http://www.kure-sensai.net/Kuushuu/Rekisi/KureNoRekisi.htm

<おまけ>

the Imperial Japanese Navy 艦名言えるかな? 戦艦巡洋艦編

自分は戦後生まれなのになぜか正解が多い?もしかして、OTAKU??


Japanese Aircraft Carriers (IJN) 日本の航空母艦

隣国では、国威発揚の為かロシアから中古の空母を買ってきて「どうだ我が国も航空母艦を持ったぞ!」と威張っているが、どうせ威張るならエンタープライズを上回る大型の空母を自国で作ってからにしてください。ちなみに日本では、数十年前にたくさんの空母を所有していました。



旧海軍史跡巡り<軍艦「天城」> [歴史探訪]

夏休みを利用して、広島呉、江田島地区の海軍の史跡巡りを計画しました。今回のテーマは、呉軍港周辺で沈没した軍艦です。
今頃なぜこんなテーマで調べることになったのかというと、先日の8月6日に海上自衛隊のヘリ空母「いずも」が横浜の造船所で進水式を迎えました。このヘリ空母は「ひゅうが」、「いせ」につづくもので3艦目の船となります。何気なくネットで調べてみるとこの同名の艦は旧海軍の軍艦にも名付けられており、偶然呉軍港の周辺で沈没し終戦を迎えたことが判明しました。そこで今回は、新生日本のため最後まで戦い抜いて沈んでいった鎮魂の場所を訪ねてみることにしました。

地図(天城).jpg
第九弾として航空母艦「天城」を取り上げてみます。
「天城」は呉軍港外の三ツ子島に繋留され、艦体には擬装網を被せたり、飛行甲板に家屋や樹木を設置して島の一部に見せ掛けるなどの擬装を施していました。


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近くの道路から繋留されていた場所を撮影しました。

※三ツ子島
三ツ子島(みつごじま)は、広島県呉市の倉橋島の北約100 mの広島湾上に浮かぶ無人島である。三子島の表記もある。南側の大きな島と北側の小さな島の2島を総称した名前で、面積は約0.1 平方キロメートルある。呉市音戸町渡子に属する。
南側の大きな島は、メキシコ産の工業塩を輸入し貯蔵するための場所として利用されている。運営しているのは三ツ子島埠頭株式会社で、日本の工業塩の75%を担っている。
第二次世界大戦中は、日本海軍が伝染病予防のための消毒施設として呉海軍病院三ツ子島消毒所を置いていた。この建物の基礎が今も島に残されている。


P1010900.jpg
対岸の江田島市大柿町柿浦から撮影しました。
終戦当時は、広範囲から大日本帝国海軍の正規空母が横たわっている姿が国民の目にさらされたことになります。大本営の発表を信じていた国民にとって衝撃な事実を目にしたことと思います。ずいぶんつらかったと推察されます。


雲龍型.jpg
航空母艦「天城(あまぎ)」は、大東亜戦争に於ける日本海軍の正規航空母艦(空母)である。
天城」は、昭和17年(1942年)9月に策定された改⑤計画の第5001号艦として計画され、雲龍型航空母艦の二番艦であった。昭和17年(1942年)10月1日、長崎県の三菱重工長崎造船所で起工され、昭和18年(1943年)10月15日に進水、昭和19年(1944年)8月10日に竣工した。

昭和16年(1941年)11月、日本海軍は、近い将来に予想されるアメリカとの戦争に備え、昭和十六年度戦時建造計画(○急計画)を策定した。この中で、中型航空母艦1隻(後の「雲龍」)が計画されていが、昭和17年(1942年)と昭和18年(1943年)に竣工予定の正規空母は1隻も無かった。そして、同年12月8日に大東亜戦争が開戦し、半年後の昭和17年(1942年)6月、ミッドウェー海戦に於いて、日本海軍は主力正規空母4隻(「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」)を喪失、これを補う為の空母の増産が急務となった。
そこで、昭和16年(1941年)に策定された第五次海軍軍備充実計画(⑤計画)を、昭和17年(1942年)9月に改⑤計画として改定、新たに雲龍型空母15隻の建造を計画した。雲龍型空母は量産性の高い戦時急増型空母で、比較的建造しやすく性能的にも充分であった中型空母「飛龍」を原型とし、小改良が加えられていた。また、量産性を高める為に構造の一部が簡略化されていた。
この、空母大増産計画の手始めが一番艦「雲龍」と二番艦「天城」であった。何れもミッドウェー海戦から2ヶ月後の昭和17年(1942年)8月には起工にこぎつけ、起工から竣工まで約2年という、当時の日本の国力を考えると驚異的な速さであった。尚、「天城」は、搭載予定の機関の調達が困難になった為、改鈴谷型重巡の機関を搭載した。また、三番艦「葛城」もやや遅れて起工、約1年10ヶ月後に竣工した。
併しながら、「天城」が竣工した昭和19年(1944年)8月時点では、日米機動部隊最後の決戦となったマリアナ沖海戦は既に終わっており、この海戦で日本海軍機動部隊は事実上壊滅していた。即ち、正規空母「瑞鶴」・中型空母「隼鷹」・軽空母「瑞鳳」「龍鳳」「千歳」「千代田」が辛うじて残存していたが、母艦飛行隊はほぼ全滅、その再建の目処は立っていなかった。詰まり、母艦はあっても乗せる飛行機が無く、日本海軍機動部隊は既に有名無実化していたのである。
天城」は、ほぼ同時に竣工した同型艦「雲龍」「葛城」と共に第三艦隊第一航空戦隊を編成したが、空母が活躍する場はもう残されていなかった。
しかし、昭和19年(1944年)10月、米軍は遂にフィリピン諸島に来襲、日本海軍はこれを迎撃する為に捷一号作戦を発動した。しかし、機動部隊の壊滅した日本海軍連合艦隊は既に有機的な戦闘能力を喪失していた。最早残された手段は残存艦艇の突入と航空機による体当たり攻撃(特別攻撃)しかなかく、出撃した空母4隻(「瑞鶴」「瑞鳳」「千歳」「千代田」)は囮艦隊としてことごとく撃沈された。
だがこの時、搭載する航空機・搭乗員の無い「天城」に出撃の機会は無く、また、僚艦「雲龍」は、同年12月、フィリピン諸島への緊急輸送に赴き、その途中で撃沈された。そして、フィリピン諸島を巡る一連の海戦によって日本海軍連合艦隊は事実上壊滅、そしてその後も再建される事は無かった。
昭和20年(1945年)に入ると、南方と内地との物資輸送はほぼ途絶、日本国内の燃料事情は逼迫していた。その為、艦を動かす燃料もままならず、「天城」は広島県の呉軍港外に係留されたままであった。3月19日には呉軍港が米軍艦載機の大規模な空襲を受け、「天城」も爆弾1発を被弾した。その後、呉軍港外の三ツ子島に繋留されるが、艦体に擬装網を被せたり、飛行甲板に家屋や樹木を設置して島の一部に見せ掛けるなど、その身の置き所にさえ苦慮する有様だった。

そして、7月24日・28日、再び大規模な空襲によって爆弾4発と至近弾5発を被弾して大破した。この時、左舷機関室艦底部に浸水したが、応急処置がうまくいかずに左舷に大傾斜、そして翌29日朝に横転してしまった。水深が浅かった為に沈没は免れたものの、艦体の上半分を海面上に残して着底した。
昭和20年(1945年)8月15日、「天城」は横転・着底した状態で終戦を迎えた。そのまま暫く放置されていたが、昭和22年(1947年)7月31日に浮揚作業が行われた。その後、解体が開始され、同年12月11日に解体が完了、ひっそりとその生涯を閉じた。
天城」は、戦時に於ける急増型空母として日本海軍機動部隊再建の期待を担って竣工した。しかし、「天城」が竣工した時、日本海軍は事実上の壊滅状態にあり、竣工したばかりの「天城」を持て余すまでに弱体化していた。「天城」は、一度も作戦に参加する事無く、生涯の殆どを呉軍港外に繋留されたまま、徒に米軍に好餌を与えるだけの存在になってしまった。
尚、「天城」は、長崎県の三菱重工長崎造船所で起工されて竣工した最後の軍艦であった。同型艦「笠置」も三菱重工長崎造船所で起工されたが未完成に終わった。


要目

<竣工時:昭和19年(1944年)>
基準排水量:17460トン
公試排水量:20120トン
満載排水量:22800トン
全長227.4m 水線長:223m 全幅:22m 喫水:7.86m
飛行甲板全長:216.9m 飛行甲板全幅:27m
主機:艦本式オールギヤードタービン4基
缶:ロ号艦本式重油専燃缶8基
出力:15万2000馬力
燃料:3670トン(重油)
最大速力:34.ノット
航続距離:18ノット・8000海里
搭載機数:常用機51機・補用2機(計画)
       艦戦 常用18機・補用2機 (艦上戦闘機「烈風」)
       偵察 常用6機 (艦上偵察機「彩雲」)
       艦攻 常用27機 (艦上攻撃機機「流星」)
搭載航空兵装:800キロ爆弾72発・250キロ爆弾240発
          60キロ爆弾260発・30キロ爆弾144発・魚雷36本
着艦制動装置:空廠式三年式一〇型4基12索
着艦制止装置:空廠式三年式一〇型3基
兵装:12.7センチ連装高角砲6基12門 (四十口径八九式十二糎七高角砲)
    25ミリ三連装機銃21基63挺 (九六式二十五粍高角機銃)
    25ミリ単装機銃30基30挺 (九六式二十五粍高角機銃)
    二号一型電探2基・一号三型電探1基
乗員:1556名


「天城」の艦歴

昭和17年(1942年)10月1日:三菱重工長崎造船所(長崎県)で起工。
昭和18年(1943年)9月25日:軍艦「天城」と命名。
昭和18年(1943年)10月15日:三菱重工長崎造船所(長崎県)で進水。
昭和19年(1944年)6月27日:艤装員長として山森亀之助大佐が着任。
昭和19年(1944年)8月10日:三菱重工長崎造船所(長崎県)で竣工。
                  横須賀鎮守府籍に編入。
                  初代艦長として山森亀之助大佐が着任。
                  第三艦隊第一航空艦隊に編入。
                  第一航空戦隊旗艦となる。
昭和19年(1944年)10月23日:2代目艦長として宮崎俊男大佐が着任。
昭和19年(1944年)11月15日:連合艦隊付属第一航空艦隊に編入。
昭和20年(1945年)1月1日:第二艦隊第一航空艦隊に編入。
昭和20年(1945年)2月10日:呉鎮守府部隊に編入。
昭和20年(1945年)3月19日:呉軍港外(広島県)で米軍機の空襲を受け爆弾1発命中。
昭和20年(1945年)4月20日:3代目艦長として平塚四郎大佐が着任。
                  呉鎮守府部隊第四予備艦となる。
昭和20年(1945年)6月10日:呉軍港外(広島県)の三ツ子島に繋留。
昭和20年(1945年)7月24日:呉軍港外(広島県)で米軍機の空襲を受け爆弾3発命中。
                  飛行甲板を損傷。左舷機関室艦底部に浸水。
昭和20年(1945年)7月28日:呉軍港外(広島県)で空襲によって爆弾1発・至近弾5発被弾。
昭和20年(1945年)7月29日:応急処置の不備により浸水して左舷に大傾斜。
                  その後、横転・着底。
昭和20年(1945年)8月15日:横転・着底したまま終戦を迎える。
昭和20年(1945年)11月30日:艦籍から除籍される。
昭和22年(1947年)7月31日:浮揚作業完了。
昭和22年(1947年)12月11日:呉海軍工廠(広島県)で解体完了。

引用:http://sakurasakujapan.web.fc2.com/main03/weaponjpnacamagi/amagi.html



cffd4bce.jpg
擬装を行うのであればもう少ししっかりできなかったのか?時間の制約や、軍事機密の理由から人員の導入が不可能だったのでしょう。


amagi01.jpg


amagi02.jpg
空母としてさぞ活躍したかったことでしょう。


AMAGI%201946.jpg
カラー写真がのこっています。さびの状況からしばらく見せしめ(?)のため目立つ場所にさらされていた可能性があります。こんな事なら、柱島泊地で沈めば国民の目にさらされることにならずにすんだのに・・・



航空母艦「天城」



【もの言わぬ鉄の城】 連合艦隊 Imperial Japanese Navy



【軍事】広島県呉港に沈座する戦艦日向、航空母艦天城


<先代の天城>

Yokosuka_Naval_Arsenal_after_Great_Kanto_earthquake_of_1923.jpg
関東大震災直後の横須賀海軍工廠ガントリークレーン付近。天城が左舷(手前側)に傾き損傷している。


先々代 天城(あまぎ)は、日本海軍の航空母艦(未成)。

<概要>
元々は八八艦隊の天城型巡洋戦艦のネームシップであり同級の1番艦。1921年(大正10年)、横須賀海軍工廠にて起工された。 しかし建造途中にワシントン海軍軍縮条約が締結されたため廃艦が決まったが、条約では建造途中の巡洋戦艦・戦艦を航空母艦に改造することは認められていたため、巡洋戦艦としてではなく航空母艦として完成させることが決まり、同型艦の赤城とともに航空母艦への改造が実施された。
しかし、改造途中の1923年(大正12年)9月1日、関東大震災に遭って船台上で竜骨が脱落するなど大破し、そのまま廃棄解体された。その代艦として、廃棄予定であった戦艦加賀が航空母艦に改装されることとなった。



amagi2.jpg
海上保安庁巡視船PL67 あまぎ

所属:下田海上保安部
全長:89メートル
総トン数:約1,300トン
参考:「旧するが」の代替船 平成22年3月11日就役、 はてるま型巡視船

現役の「あまぎ」です。ぴかぴかの新品で活躍中です。
先先代の天城は完成間近で関東大震災により最期を遂げ、先代の天城も燃料も搭載する航空機もなくむなしい最期を遂げてしまいました。これで先代も浮かばれるでしょう(少し小さすぎるか)?。欲を言えば「天城」は先々代も先代も空母であったので、もう一度大型の花形艦で再生して頂きたいと個人的に思っています。そうでもしないと、戦後に傾いたまま屍をさらし者にされた正規空母にとっては浮かばれないでしょう。

「いずも」の次は国の名前で日本神話に関係する場所由来の艦名とすると、その次のヘリコプター空母は「あまぎ」と「あそ」(葛城は復員船として戦後に働いたから優先度は低いか)にしてください。防衛大臣殿よろしくお願いします。




旧海軍史跡巡り<軍艦「阿蘇」> [歴史探訪]

夏休みを利用して、広島呉、江田島地区の海軍の史跡巡りを計画しました。今回のテーマは、呉軍港周辺で沈没した軍艦です。
今頃なぜこんなテーマで調べることになったのかというと、先日の8月6日に海上自衛隊のヘリ空母「いずも」が横浜の造船所で進水式を迎えました。このヘリ空母は「ひゅうが」、「いせ」につづくもので3艦目の船となります。何気なくネットで調べてみるとこの同名の艦は旧海軍の軍艦にも名付けられており、偶然呉軍港の周辺で沈没し終戦を迎えたことが判明しました。そこで今回は、新生日本のため最後まで戦い抜いて沈んでいった鎮魂の場所を訪ねてみることにしました。

地図(阿蘇).jpg
第八弾として航空母艦「阿蘇」を取り上げてみます。
「阿蘇」は倉橋島北東部の奥ノ内沖に係留されていました。


Japanese_battleship_Ise_burning_at_Kure_28_July_1945.jpg
米軍が撮影した写真の奥に「阿蘇」の姿がみえます。






雲龍型.jpg
阿蘇(あそ)は日本海軍の未成航空母艦。雲龍型航空母艦の5番艦。艦名は九州の阿蘇山による。艦名は装甲巡洋艦の「阿蘇」に次いで2代目。
候補艦名は身延


Japanese_aircraft_carrier_Aso.jpg
「阿蘇」は、昭和17年(1942年)9月に策定された改⑤計画の第5006号艦として計画され、雲龍型航空母艦の五番艦であった。昭和18年(1943年)6月8日、広島県の呉海軍工廠で起工され、昭和19年(1944年)11月1日に進水、同年11月9日に工事が中止された。工事進捗は60%であった。

昭和16年(1941年)11月に策定された昭和十六年度戦時建造計画では、中型航空母艦1隻(後の「雲龍」)が計画されていたが、昭和17年(1942年)と昭和18年(1943年)に竣工予定の正規空母は1隻も無かった。そして、同年12月8日に大東亜戦争が開戦し、半年後の昭和17年(1942年)6月、ミッドウェー海戦に於いて、日本海軍は主力正規空母4隻(「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」)を喪失、これを補う為の空母の増産が急務となった。
そこで、昭和16年(1941年)に策定された第五次海軍軍備充実計画(⑤計画)を、昭和17年(1942年)9月に改⑤計画として改定、新たに雲龍型空母15隻の建造を計画した。雲龍型空母は、中型空母「飛龍」を原型とし、小改良を加え、構造の一部を簡略して量産性を高めた戦時急増型空母であった。
これら、空母大増産計画に基づき、昭和17年(1942年)中には、雲龍型空母の一番艦~三番艦(「雲龍」「天城」「葛城」)が起工、続いて、昭和18年(1943年)4月には四番艦(後の「笠置」)も起工、更に、同年6月8日、広島県の呉海軍工廠に於いて、五番艦(後の「阿蘇」)が起工した。この時、同じ呉海軍工廠では、雲龍型空母三番艦「葛城」の建造も進められていた。


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しかし、戦局の悪化に伴い、損傷艦の修理や他艦種の建造が優先され、更に、資材や労働力の不足が深刻になり、「阿蘇」の工事は遅れがちとなっていた。また、当初搭載予定の機関の調達が困難になった。そこで急遽、陽炎型駆逐艦の機関を2基搭載する事になり、計画出力の15万2000馬力から10万4000馬力に減少、その為、最高速力も計画値の34ノットから32ノットに低下する事になった。
そして、起工から約1年半後の昭和19年(1944年)11月1日に「阿蘇」は進水した。
併しながら、この時点では、6月のマリアナ沖海戦と10月のレイテ沖海戦によって日本海軍連合艦隊は事実上壊滅しており、以後、組織的な艦隊行動が行われる見込みは無かった。また、航空機や搭乗員の不足によって母艦飛行隊再建の目処もたたず、先に竣工していた同型艦「天城」「葛城」は、載せる飛行機も無いまま広島県の呉軍港外に繋留されていた。更には、燃料事情の逼迫によって艦を動かす燃料にすら事欠く状態だった。
進水後の「阿蘇」は殆ど艤装作業も行われず、同年11月9日に工事の中止命令が出された。作業進捗60%で、艦体はほぼ完成していたが、上部構造物は未完成の状態だった。「笠置」は、広島県の呉軍港付近の倉橋島北東部の奥ノ内沖に回航されて放置された。その後、昭和20年(1945年)7月、「阿蘇」は、陸軍の新型爆弾「さくら弾」の効果を確認する標的艦となった。「さくら弾」は、成型炸薬を使用した特攻機用爆弾であった。「さくら弾」の爆発による被害は軽微であったが、この時に浸水して傾斜し、やがて着底した。
そして、昭和20年(1945年)8月15日、着底したまま終戦を迎えた。その後、昭和21年(1946年)12月20日に播磨造船所呉船渠(呉海軍工廠)によって浮揚作業が行われ、翌21日から解体作業が開始された。そして、昭和22年(1947年)4月26日に解体が完了した。

引用:http://sakurasakujapan.web.fc2.com/index.html


阿蘇

<計画時:昭和19年(1944年>

基準排水量:17260トン
公試排水量:19880トン
満載排水量:22534トン
全長227.4m 水線長:223m 全幅:22m 喫水:7.76m
飛行甲板全長:216.9m 飛行甲板全幅:27m
主機:艦本式オールギヤードタービン4基
缶:ロ号艦本式重油専燃缶8基
出力:10万4000馬力
燃料:3670トン(重油)
最大速力:32.ノット
航続距離:18ノット・8000海里
搭載機数:常用機51機・補用2機(計画)
       艦戦 常用18機・補用2機 (艦上戦闘機「烈風」)
       偵察 常用6機 (艦上偵察機「彩雲」)
       艦攻 常用27機 (艦上攻撃機機「流星」)
搭載航空兵装:800キロ爆弾72発・250キロ爆弾240発
          60キロ爆弾260発・30キロ爆弾144発・魚雷36本
着艦制動装置:空廠式三年式一〇型4基12索
着艦制止装置:空廠式三年式一〇型3基
兵装:12.7センチ連装高角砲6基12門 (四十口径八九式十二糎七高角砲)
    25ミリ三連装機銃21基63挺 (九六式二十五粍高角機銃)
    25ミリ単装機銃30基30挺 (九六式二十五粍高角機銃)
    12センチ28連装噴進砲6基168門
    二号一型電探2基・一号三型電探1基
乗員:1500名

昭和18年(1943年)5月2日:呉海軍工廠(広島県)に発注。
昭和18年(1943年)6月8日:呉海軍工廠(広島県)で起工。
昭和19年(1944年)9月5日:軍艦「阿蘇」と命名。
昭和19年(1944年)11月1日:呉海軍工廠(広島県)で進水。呉鎮守府籍に編入。
昭和19年(1944年)11月9日:工事進捗60%で建造中止。
昭和20年(1945年)4月25日:呉軍港外(広島県)の倉橋島に繋留。
昭和20年(1945年)7月:陸軍の特攻機用爆弾「さくら弾」の標的艦となる。
昭和20年(1945年)8月15日:着底したままで終戦を迎える。
昭和21年(1946年)12月20日:浮揚作業完了。
昭和21年(1946年)12月21日:呉海軍工廠(広島県)で解体開始。
昭和22年(1947年)4月26日:呉海軍工廠(広島県)で解体完了。





■ 昭和20年(1945)5月 特攻戦果に疑問あり 未完成空母阿蘇 爆撃実験

1945年(昭和20年)に入ると撃沈したはずの米艦が沈んでいないことが判明してくる。 そこで 5月進水したものの物資・資材不足で艤装できない空母阿蘇を呉沖(倉橋島大迫・特殊潜航艇基地沖)に引き出し 陸海最強の爆弾投下実験を行った。委員長は呉海軍工廠の妹尾知之工廠長(任期:1945年5月1日~) 投下したものの阿蘇の傾斜は1度程度傾いただけ。更に爆弾を強力にし2回目を6月に実施。前回より少しはましで5度程度傾いたが沈没にはほど遠い状態。 次の実験を7月に予定していたところ、米艦載機の爆弾で見事着底(1945/07/24)。

関係者一同。日本軍の爆弾の威力のなさに愕然。かくも威力のない爆弾で死ねと命じたことは痛憤に堪えない。 とある。高威力だったら痛憤は起きなかったのか。この、「痛憤に堪えない。」の話は 光海軍工廠の記録「光工廠譜」にある。それほど当時の日本海軍兵学校や大学校出身者全体が科学技術音痴であった。

http://www.d4.dion.ne.jp/~ponskp/yamato/tokkou/tokkou_3.htm






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http://www.vspg.net/jcg/pl41-aso-class.html

海上保安庁(1) あそ級巡視船(1/3)PL41
2002計画1000T型(高速高機能型)巡視船として三菱重工業下関造船所で03.12/18起工04.10/28進水05.3/15

現役の「阿蘇」です。すばらしく立派になって活躍中です。
先代の阿蘇は完成間近で放置され、自国の爆弾により攻撃実験を受けるというつらい最期を遂げましたが、これで先代も浮かばれるでしょう。欲を言えば、「いずも」型護衛艦の2番艦の名前に「阿蘇」がつけられると良いなと個人的に思っています。(護衛艦「日向」は天孫降臨の場日本国誕生の地、続く「伊勢」は太陽神であり天皇家の祖、天照大神を祭っている場所。それから、「出雲」は天孫降臨前から日本国の神である大国主命を祀ってある国。こう続いてくると、古代からの大神様が祀られている国は、宇佐神宮(豊前)?諏訪大社(信濃)?、厳島神社(安芸)?、鹿島神宮(常陸)?住吉大社(摂津)?になるのか?)

この艦には数奇な事実もあるのです。それは、
「05.3/15竣工し2/12第3管区海上保安部横浜海上保安部に配属されあまぎと改名した巡視船(PL121)げんかいの代船として第7管区海上保安部福岡海上保安部に配属」
あまぎの代わりに配属された船なのです。代わりになる前に改名(作為的?)されているのです。雲龍型の三号艦「天城」に続くのは「阿蘇」であるかのように、これはまるで先代の「阿蘇」の鎮魂そのものではないでしょうか。たぶん、関係者による強い思いが働いているのでしょう。その一部の関係者は後世にまさかこの事実に気づく人がいるとは考えもしなかったでしょう。(あくまでも私感です)



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