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旧海軍史跡巡り<軍艦「摂津」> [歴史探訪]

第13弾として軍艦「摂津」を取り上げてみます。
摂津は歴史ある艦で、1914年には連合艦隊旗艦も努めています。
そして特に有名なことは、ワシントン軍縮会議で廃艦となりそうな「陸奥」を守るため自ら犠牲になったと言うことです。その話のついでに、外された主砲は対馬の要塞に据え付けられ海峡ににらみをきかせていたという話も結構有名です。

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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%82%E6%B4%A5_(%E6%A8%99%E7%9A%84%E8%89%A6)

摂津(せっつ)は、日本海軍の戦艦。河内型戦艦の2番艦である。後に標的艦となった。駆逐艦「矢風」によって遠隔操作される無人艦というのが一般的に知られている。艦名は旧国名「摂津国」にちなんで命名され、日本海軍の艦船としては「摂津艦」に続いて2代目。

1909年1月18日起工。1911年3月30日に進水、1912年7月1日に竣工した。建造は呉工廠。
本艦は、30センチ砲連装6基12門と砲力は強力に見える。しかし、実際は主砲を亀甲型に配置したため、右、又は左舷に砲を撃つとき反対舷の砲が使用できず、そのうえ前後の砲2基が50口径、中央舷側の4基が45口径と射撃指揮に問題がでるものであった(東郷平八郎が「前後の砲はより強化すべし」と言ってそのようにさせたという)。戦闘への参加は無かったが、第一次世界大戦にも参加している。

「標的艦」摂津
1923年10月1日のワシントン海軍軍縮条約により、戦艦「陸奥」を保有する代わりに、摂津は退役させられることとなった。主砲や装甲など戦闘艦としての装備を全廃し、標的艦に改装された。なお、12センチ砲1門が福岡県の香椎宮に寄贈され、いまなお保存されている。標的艦となった当初の本艦は、自身が標的となるのではなく標的となる目標を曳航するのが任務であった。
1923年、ドイツが軍艦を無線操縦する技術を開発したと伝えられると、日本海軍もそれを研究し、1928年に無人操縦装置の試作機完成。実験の上摂津に搭載することとなったが、この時は本格採用されず、すぐに予備艦となり呉軍港に長らく係留された。

爆撃標的艦への改造
ワシントン軍縮条約失効後の1937年、本格的な無人操縦装置を取り付け、摂津自身を爆撃訓練の標的とする標的艦に改造された。すなわち駆逐艦矢風を操縦船とし、10キロ演習用爆弾の高度4000メートルからの投下に耐えられるよう甲板・艦橋・煙突等の防御を強化した。速力が求められないため第2ボイラーを休止し、3本あった煙突のうち第2煙突を撤去した。残った2つのボイラーを換装し少しでも速力低下を防いだが、速力は20ノットから16ノットに低下した。

1940年の改造[編集]
その後1939年から1940年にかけて重巡クラスの砲撃訓練、及び航空機の雷・爆撃訓練を航空機側のみならず操艦側の回避訓練にも使用可能なように防御がさらに強化された。すなわち10キロ演習爆弾の高度6000メートルからの投下、30キロ演習爆弾の高度4000メートルからの投下、射距離22000メートルからの20センチ演習砲による砲撃、射距離5000メートルからの5センチ演習砲による砲撃などに耐えられるよう、軍縮条約によって取り外していた側装甲を復活し、甲板の防御をさらに強化した。回避操船訓練のため速力が求められるため、休止していた第2ボイラーを換装し第2煙突を復活させ速力は17.4ノットに向上した。艦橋安全区画からの着弾観測の妨げにならないよう第一煙突の高さが短縮された。

この強化の結果、安全距離以内に近づいて艦船の砲撃や爆撃訓練を行うことが可能になった。この改装で特に航空機部隊の練度や艦長の操艦技術向上に繋がり、大戦初期の戦果向上の一助となる。(摂津艦長時代に航空攻撃回避術を研究、後の捷一号作戦で第四航空戦隊司令官として、激しい米軍機の攻撃から指揮下の「日向」「伊勢」を無事生還させた松田千秋が特に有名)

なお摂津及び「矢風」を初めとする標的艦やそれに従事する艦には、煙突部分に算盤玉のようなキャップが装着された。これは砲弾や爆弾が開口部から進入し、機関を破壊するのを防止するための装甲化された覆いである。排煙はキャップと開口部の隙間から出るようになっていた。

その後
開戦後も(任務の性格から当然ではあるが)特に日本周辺から離れることはなく呉を母港として過ごしたが、1945年7月24日アメリカ軍機による呉軍港空襲を受け大破着底、そのまま終戦を迎える。1945年11月20日除籍。


艦長
田中盛秀 大佐:1911年12月1日 - 1912年12月1日 *兼呉海軍工廠艤装員(- 1912年7月1日)
山中柴吉 大佐:1912年12月1日 - 1913年12月1日
木村剛 大佐:1913年12月1日 - 1914年12月1日
永田泰次郎 大佐:1914年12月1日 - 1915年12月13日
川原袈裟太郎 大佐:1915年12月13日 - 1916年12月1日
本田親民 大佐:1916年12月1日 - 1917年12月1日
犬塚助次郎 大佐:1917年12月1日 - 1918年11月10日
内田虎三郎 大佐:1918年11月10日 - 1919年6月10日
古川弘 大佐:1919年6月10日 - 11月20日
今泉哲太郎 大佐:1919年11月20日 - 1920年6月3日
横尾尚 大佐:1920年6月3日 - 11月20日
武光一 大佐:1920年11月20日 - 1921年11月20日
小山田繁蔵 大佐:1921年11月20日 - 1922年11月10日
(兼)松平保男 大佐:1922年11月10日 - 1923年1月20日
武富咸一 大佐:1923年1月20日 - 10月1日
特務艦長武富咸一 大佐:1923年10月1日 - 11月20日
松本匠 大佐:1923年11月20日 - 1924年12月1日
右田熊五郎 大佐:1924年12月1日 - 1925年4月20日
瀬崎仁平 大佐:1926年12月1日 - 1927年9月28日
千谷定衛 大佐:1929年11月30日 - 1930年12月1日
水崎正次郎 大佐:1935年4月18日 - 11月15日
左近允尚正 大佐:1936年12月1日 - 1938年7月20日
鈴木長蔵 大佐:1938年7月20日 - 1939年11月15日
(兼)原田覚 大佐:1939年11月15日 - 1940年3月10日
小暮軍治 大佐:1940年3月10日 - 11月1日
(兼)伊崎俊二 大佐:1940年11月1日 - 11月28日
森徳治 大佐:1940年11月28日 - 1941年9月1日
松田千秋 大佐:1941年9月1日 - 1942年2月10日
石井敬之 大佐:1942年2月10日 - 5月20日
島本久五郎 大佐:1942年5月20日 - 10月1日
長井満 大佐:1942年10月1日 - 1943年2月2日
長谷真三郎 大佐:1943年2月2日 - 4月12日
佐藤勝也 大佐:1943年4月13日 - 6月25日
三浦艦三 大佐:1943年6月25日 - 8月4日
相馬信四郎 大佐:1943年8月4日 - 1944年8月10日

<初代摂津艦>
日本海軍の軍艦。艦名は摂津国から採られる。日本海軍での1874年以降の正式艦名は「摂津艦」であるが、通常は摂津と記述される。
幕末に購入、艦歴の後半では主に練習船として使用された。
本艦の元は汽船「コヤホッグ」で、三檣シップリッグ砲艦。アメリカで建造され、南北戦争の際には北軍で使用されていた。慶応4年6月(1868年7月から8月)に外人から購入、同年(9月8日より明治に改元)12月(1869年1月から2月)に摂津丸と命名された。翌明治2年(1869年)に広島藩に貸与されている。
1870年(明治3年)7月に普仏戦争が勃発し、その防備のために兵庫港に派遣された。
明治4年(1871年)広島藩から返還、9月18日(1871年10月31日)に一番貯蓄船(いちばんちょちくせん)と改名、11月15日(1871年12月26日)には五等艦と定められ、翌年に機関が撤去された。
1874年(明治7年)に摂津(艦)と改名、四等艦とされ、海軍省内堀に係留され練習艦として使用された。1876年(明治9年)11月より横浜で貯蓄船とされ、1878年(明治11年)12月以降は兵学校練習船に指定された。
1886年(明治19年)2月17日に除籍されたが兵学校授業船として引き続き使用された。1888年(明治21年)に兵学校が東京築地から広島県江田島に移転となり、本船は売却された。




就役:1912年7月1日
その後:1945年7月24日戦没
除籍:1945年11月20日

排水量:基準:21,443 t、標的艦時:20,650t
全長:160.6m
全幅:25.6 m
吃水:8.5 m
機関:宮原式石炭・重油混焼水管缶16基、+ブラウン・カーチス式直結タービン2基2軸推進
最大出力:25,000hp
最大速力:20ノット(37 km/h)、17.4ノット(標的艦時)
燃料:石炭:2,300トン、重油:400トン
乗員:986名

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初代の摂津

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陸奥を守るため武器を外すことになりましたが、ここに奉納されたと言うことは摂津の鎮魂のため良かったことと思われます。これは、香椎神宮に奉納されてる「摂津」の12糎砲身です。


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ヘリコプター1機搭載型巡視船「つがる」型 PLH-07 ヘリコプター搭載巡視船せっつ


現在の摂津です。頼もしくなって活躍中です。
磐手とか長門、大和、武蔵などは近隣の国に気を遣ったのか現役の艦船の名前には使用されていません。そう考えると、陸奥を守るため手足をもがれましたが、標的艦になって終戦近くまで現役を続けて子孫?が活躍するという、恵まれた艦といえます。

http://www.vspg.net/jcg/plh07.html

旧海軍史跡巡り<軍艦「磐手」> [歴史探訪]

第12弾として軍艦「磐手」を取り上げてみます。

地図(磐手).jpg


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%90%E6%89%8B_(%E8%A3%85%E7%94%B2%E5%B7%A1%E6%B4%8B%E8%89%A6)
磐手 (装甲巡洋艦)
磐手(いわて/いはて)は、大日本帝国海軍の装甲巡洋艦。出雲型装甲巡洋艦の2番艦。元1等巡洋艦。
1901年(明治34年)3月18日、アームストロング社にて竣工し領収。翌日19日に日本へ回航。同年5月17日、横須賀に到着した。
日露戦争時には最新鋭の装甲巡洋艦として第二艦隊に所属し日本海海戦にも参加した。
1921年(大正10年)9月1日、1等海防艦に変更(1931年(昭和6年)に等級廃止)。船体の大きいこと、居住性の良さなどから主に練習艦隊参加艦(1916年(大正5年)より)として遠洋航海に従事し、多くの士官候補生を育てた。遠洋航海参加は香取型練習巡洋艦の竣工する前年の1939年(昭和14年)まで続いた。
海防艦の定義見直しにともない1942年(昭和17年)7月1日に1等巡洋艦に復帰。
1945年(昭和20年)7月26日、呉軍港空襲で沈没するまで練習艦として使用された。戦後引き上げ解体される。

艦長
• 山田彦八 大佐:1900年9月1日 - 1901年7月6日
• 武富邦鼎 大佐:1901年7月6日 - 1905年1月12日
• 川島令次郎 大佐:1905年1月12日 - 1906年2月2日
• 山下源太郎 大佐:1906年2月2日 - 11月22日 
• 有馬良橘 大佐:1906年11月22日 - 1907年12月17日
• 石田一郎 大佐:1907年12月27日 - 1908年9月15日
• 真野巌次郎 大佐:1908年9月15日 - 1909年3月4日
• 北野勝也 大佐:1909年3月4日 - 1910年12月1日
• 松岡修蔵 大佐:1910年12月1日 - 1911年5月23日
• 橋本又吉郎 大佐:1911年5月23日 - 12月1日
• 舟越楫四郎 大佐:1911年12月1日 - 1912年7月13日
• 原静吾 大佐:1912年7月13日 - 1913年3月7日
• (兼)山口九十郎 大佐:1913年3月7日 - 5月24日
• (兼)上村経吉 大佐:1913年5月24日 - 8月31日
• 井出謙治 大佐:1913年8月31日 - 12月1日
• 広瀬弘毅 大佐:1913年12月1日 - 1914年10月27日
• 山口鋭 大佐:1914年10月27日 - 1915年4月1日
• 百武三郎 大佐:1915年7月19日 - 1916年9月1日
• 中里重次 大佐:1916年12月1日 - 1918年8月15日
• 筑土次郎 大佐:1918年8月15日 - 1919年11月20日
• 鳥崎保三 大佐:1919年11月20日 - 1921年6月15日
• 大寺量吉 大佐:1921年11月20日 - 1923年3月5日
米内光政 大佐:1923年3月5日 - 1924年7月18日
• 八角三郎 大佐:1924年7月18日 - 11月1日
• 石川清 大佐:1924年11月1日 - 1925年5月1日
• 枝原百合一 大佐:1925年12月1日 - 1926年9月15日
• 亥角喜蔵 大佐:1926年9月15日 - 1927年12月28日
• 鈴木義一 大佐:1928年12月10日 - 1929年12月24日
• 井上勝純 大佐:1929年12月 - 1930年12月1日
• 岡田偆一 大佐:1931年4月1日 - 1932年9月26日
• 鈴木嘉助 大佐:1932年9月26日 - 1933年8月25日
• 原清 大佐:1933年8月25日 - 1934年9月1日
• 藤森清一朗 大佐:1934年9月1日 - 11月15日
• 山田省三 大佐:1934年11月15日 - 1935年11月15日
• 角田覚治 大佐:1935年11月15日 - 1936年12月1日
• 醍醐忠重 大佐:1936年12月1日 - 1937年12月1日
• 一瀬信一 大佐:1937年12月1日 - 1938年7月15日
• 小柳富次 大佐:1938年7月15日 - 1939年1月28日
• (兼)岩越寒季 大佐:1939年1月28日 - 5月1日
• 緒方真記 大佐:1939年5月1日 - 12月27日
• 大和田昇 大佐:1940年11月10日 - 1941年1月6日
松本毅 大佐:1942年5月25日 - 9月5日
• 猪瀬正盛 大佐:1943年2月18日 - 11月8日



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起工:1898年11月11日
進水:1900年3月29日
就役:1901年3月18日
その後:1945年7月26日戦没
除籍:1945年11月20日

排水量:9,750t
全長:水線長:132.28m
全幅:20.94m
吃水:7.37m
機関:ベルヴィール式石炭専焼水管缶24基直立型三段膨張式四気筒レシプロ機関2基2軸推進
最大速:20.75ノット
兵員:648名

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<磐手 ヒストリー>
磐手は六六艦隊計画に基づいて建造された装甲巡洋艦群の最終艦で、明治34年3月18日に姉妹艦出雲と同じアームストロング社エルジック工場にて完成しました。
日露戦争においては装甲巡洋艦6隻からなる第2戦隊の司令官旗艦として行動しました。明治37年8月14日の蔚山沖海戦では、70名以上の死傷者という第2戦隊最大の損害を被りながらもウラジオ艦隊を撃滅し、翌38年5月27日の日本海海戦では戦艦群とともにバルチック艦隊に対し猛撃を加え日本海群の圧倒的勝利に貢献しました。
第1次世界大戦では青島及び南洋群島の攻略作戦に参加、インド洋警備などに従事しました。その後、大正5年から昭和14年まで15回にわたり少尉候補生の遠洋航海に従事し、後の太平洋戦争を戦うことになる多くの海軍将校の育成に大きな役割を果たしました。
新造の練習巡洋艦香取型が就役すると練習任務をそれらに託し、磐手は第3遣支艦隊に所属、太平洋戦争開戦後は海防艦から再び一等巡洋艦に類別されるなどしましたが、終戦直前の昭和20年7月24日、呉の天応海岸で米海軍機の爆撃により浸水着底し、その生涯を閉じました。
この場所は同日、出雲が被爆転覆した場所の近くで、2隻の誕生と最後の時期や場所がほぼ同じというのも奇しき因縁と言えるでしょう。

http://www.f-sight.jp/sealsmodel/iwate-history.html




<磐手は連合艦隊旗艦(第2艦隊旗艦)になったこともあった>
※呉地区で沈んだ軍艦の中には数多くの連合艦隊の旗艦が含まれます。

連合艦隊旗艦
(*は常備艦隊、**は第1、第2艦隊のみの編制で連合艦隊を編制せず)
なお、本表の艦名は、艦隊編成時のものであり、編制後、旗艦を変更する事は普通の事であった。
その点、御留意願いたい。
1894.7/19松島
 1895.5/11松島
 *1895.11/16厳島
 *1896.2/26橋立
 *1896.12/31松島
 *1897.10/8富士
 *1897.12/31 富士
 *1898.12/31 富士
 *1899.12/31 八島
 *1900.5/20 常磐
 *1900.12/31 敷島
 *1901.10/1 朝日
 *1902.7/26 三笠
 *1903.10/19 三笠
 1903.12/28 三笠
 1905.1/12 三笠
 1905.6/14 三笠
 **1905.12/20 1F 八雲 2F壱岐
 **1906.6/1 1F 日進 2F 壱岐
 **1906.11/22 1F 日進 2F 壱岐
 **1907.1/18 1F 香取 2F 筑波
 **1908.1/1 1F 香取 2F 吾妻
 **1908.5/26 1F 三笠 2F 生駒
 1908.10/6(臨時編制) 三笠
 **1909.1/1 1F 香取 2F 吾妻
 **1909.12/1 1F 三笠 2F 八雲
 **1910.12/1 1F 薩摩 2F 春日
 **1911.12/1 1F 香取 2F 常磐
 **1912.12/1 1F 河内 2F 磐手
 **1913.12/1 1F 金剛 2F 八雲
 **1914.8/18 1F 摂津 2F 周防
 **1915.2/5 1F 摂津 2F 周防
 **1915.9/23 1F 摂津 2F 周防
 **1915.12/13 1F 扶桑 2F 榛名
 **1916.12/1 1F 扶桑 2F 榛名
 **1917.12/1 1F 山城 2F 金剛
 **1918.12/1 1F 山城 2F 榛名
 **1919.12/1 1F 扶桑 2F 榛名
 **1920.12/1 1F 長門 2F 金剛
 **1921.12/1 1F 長門 2F 編制せず
 1922.12/1 長門
 1923.12/1 長門
 1924.12/1 陸奥
 1925.12/1 長門
 1926.12/1 長門
 1927.12/1 長門
 1928.12/10 山城
 1929.11/30 伊勢
 1930.12/1 長門
 1931.12/1 金剛
 1932.12/1 陸奥
 1933.5/20 陸奥
 1933.11/15 金剛
 1934.11/15 榛名
 1935.11/15 長門
 1936.12/1 長門
 1937.12/1 陸奥
 1938.12/15 長門
 1939.11/15 長門
 1940.5/1 長門
 1940.11/15 長門
 1941.9/1 長門
 1941.12/10 長門
 1942.4/10 大和
 1942.7/14 大和
 1943.4/1 武蔵
 1943.9/1 武蔵
 1944.1/1 武蔵
 1944.4/1 大淀
 1944.8/15 大淀
 1944.9/29 以降、陸上

http://hush.gooside.com/Order/GF/FS.htmlef=*:


旧海軍史跡巡り<軍艦「陸奥」> [歴史探訪]

第11弾として軍艦「陸奥」を取り上げてみます。
「陸奥」は柱島泊所に繋留されていましたが、謎の爆発により沈没してしまいました。原因についてはいろいろな説がありますが、はっきりしていません。個人的には、中学生の頃自転車に乗って、江田島の切串にある深田サルベージまで引き揚げられた陸奥を見学に行ったことがあります。そのときに、刃の部分が錆びていない日本刀を目の当たりにし感動した記憶があります。
それから、個人的にはこの長門型戦艦(後期型)が一番好きです。

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陸奥(むつ)は、かつて日本海軍に所属した戦艦である。青森県から福島県にかけての旧国名・陸奥国を名前の由来に持つ。日本海軍の象徴として日本国民から親しまれたが、1943年(昭和18年)6月に主砲火薬庫爆発を起こして沈没した。

「陸奥」は長門型戦艦の2番艦で、八八艦隊計画二番手である。姉妹艦「長門」より1年遅れた1917年(大正6年)に八四艦隊案の一艦として加賀型戦艦、天城型巡洋戦艦と共に予算が承認された。1918年(大正7年)6月1日に横須賀海軍工廠にて起工され、1920年(大正9年)5月31日に進水、1921年(大正10年)11月22日、引渡し式が行われ軍艦籍に入った。佐世保鎮守府に入籍。

起工:1918年6月1日
進水:1920年5月31日
就役:1921年10月24日
その後:1943年6月8日に爆発、沈没
除籍:1943年9月1日
排水量:基準:32,720トン
全長:215.80m
全幅:28.96m
吃水:9.14m
機関:ロ号艦本式専焼缶15基、同混焼缶6基 艦本式タービン4基4軸 80,000馬力
最大速:26.7ノット
乗員:1,333名

艦長
・小牧自然 大佐:1921年(大正10年)3月1日 -
・黒瀬清一 大佐(海兵26期):1921年(大正10年)12月1日 - 
・寺岡平吾 大佐(海兵27期):1922年(大正11年)12月1日 - 
・原敢二郎 大佐(海兵28期):1923年(大正12年)12月1日 - 
・米内光政 大佐(海兵29期):1924年(大正13年)11月10日 - 

<引用:ウィキペディア>


江田島市の陀峯山の頂上の案内板
P1050554.JPG
江田島市大柿町にある陀峯山の頂上から沈没位置がみえるはず、と勇んで登ってみましたが、微妙な位置関係のようです。

P1050556.JPG
昇った日は、真冬日なのですっきりと視界がきくものと考えていましたが・・・・(これはきっと中国PM2.5のせいだ?)ドームの右奥に柱島が移っているので視界が良好であれば沈没箇所がよく見えた可能性があります。
このとき気づきましたが、デジカメの右上に変なものが映り込むようになりました。ネットで調べると、CCDのうえにゴミが付いているようです。自分で分解して掃除をするとすっかりきれいになりました。
参考>http://blog.livedoor.jp/hakodatedayo/archives/51703485.html
参考>http://kane-kasegi.com/repair/LUMIX.html


DSC03973.JPG
2003年に江田島旧兵学校を見学した特に撮影したもので、「戦艦陸奥の主砲」が遠くに見えます。実際は近くまで行こうと思いましたが、術科学校の生徒が授業中なのでこの日は近づけませんと注意されてしまいました。

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大和ミュージアムの前庭に展示している陸奥のスクリュー(なぜか数カ所欠けている。爆発の影響か?)と主砲の砲身です。

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そばにいる人と比べるとかなり大きいことがわかります。


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大改造後の全力公試運転中の「陸奥」の姿です。
「1921年(大正10年)10月19日の全力公試では排水量33,750トン、87,479馬力で26.728ノットという、後の大和型戦艦に迫る速力を発揮した。」そうです。

<公試成績>
竣工時  87,494shp  26.728kt  1921年(大正10年)
大改装後 82,578shp  25.28kt   1936年(昭和11年)


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松山の「道後温泉」と「坂の上の雲ミュージアム」に行ったときフェリーを使って周防大島を通りました。そのとき、たまたま陸奥の記念館に立ち寄り見学をしましたが、ほとんど写真を撮っていませんでした。この写真は駐車場の前のフェンスを撮ったものです。


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陸奥の記念館前に展示している陸奥の碇です。記念館は立派なものでたくさんの展示物が提示されていました。ここで、中学生の頃見た錆びていない日本刀に再会することができました。
http://homepage3.nifty.com/ki43/heiki3/mutu/mutu.html


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陸奥の記念館(駐車場)前の海です。たぶんこの写真の左奥で陸奥が沈んだのでしょう。
この写真をよく見ると手こぎのゴムボートを海に浮かべて魚釣りをしている人がいます。普通ゴムボートは湖などの閉鎖水域で使用されますが、さすが瀬戸内海、なんと穏やかな景色でしょう。


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陸奥の勇姿です。長門と違うところは艦首の菊のご紋章の位置が高いところにあります。・・・ということで、正面の写真からは見分けが付くのですが、横からの写真はお手上げです。少し修行がいるようです。


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高校時代に「戦艦長門の生涯」という本を読んで感銘を受けたことがありますが、その本の中に煙突の煙が艦橋に入ってきて大変だったので、最初は煙突の前にフードのようなものをつけた。その後の改装時に煙突を湾曲させた、というような記述があったことを思い出しました。


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この写真は正面からですが、波しぶきが高くて菊のご紋章が見えません。この写真を見せられても私には長門か陸奥か見分けが付きません。


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煙突が1本となりかなりすっきりしました。そして、艦首の部分も鈍角から鋭角になりかなりかっこよくなりました。マストの高さも低くなったようです。


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姉妹艦の長門の勇姿です


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陸奥の絵はがき


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陸奥の建造時の写真です。陸奥は呉造船ではなく横須賀で作られました。


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艦首の形状、高い艦橋とマスト、大変美しい姿です。


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誰が見ても「長門型戦艦」とわかる代表的なシルエットです。


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この写真が撮られた時期はマストの高さが低かったようです。

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この写真は姉妹艦の長門のようです。(実は菊のご紋章の位置から陸奥だと思っていましたが、、識別には自信がなくなりました)


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勇壮な陸奥の姿です

<陸奥爆沈>

1943年(昭和18年)1月12日に横須賀に到着した後は内地待機が続いた。6月8日、「陸奥」は広島湾沖柱島泊地に停泊していた。早朝から降っていた霧雨がやみ、無風で霧が泊地を覆っていたという。「陸奥」の周囲には姉妹艦「長門」、戦艦「扶桑」、重巡洋艦「最上」、軽巡洋艦「大淀」、「龍田」、駆逐艦「若月」、「玉波」が停泊している。この日「陸奥」は桂島泊地に向かう「長門」に旗艦ブイを譲るため、午後1時から繋留替えをする予定になっていた。「長門」は「陸奥」の右舷前方で一旦停止する。航海科員が錨地変更作業の準備をしていた12時10分ごろ、「陸奥」は三番砲塔付近から突然に煙を噴きあげて爆発を起こし、一瞬のうちに船体が2つに折れた。艦前部は右舷に傾斜すると、爆発後すぐに沈没した。この時、360tもの重量がある三番砲塔が艦橋とほぼ同じ高さまで吹き飛んだという目撃証言もある

「長門」は「陸奥」轟沈を米潜水艦雷撃によるものと判断し、増速して現場を離れると、救助艇を発進させた。艦後部は爆発後しばらく艦尾部分を上にして浮いており、「長門」短艇が接舷して救助作業を行っている。艦尾部分は午後5時ごろまで浮いていたが、日没後に沈没した。乗員1,474人(定員1,343名、予科練甲飛第十一期練習生と教官130名余が艦務実習で乗艦)のうち助かったのは353人で、死者のほとんどは溺死でなく爆死だった。
「陸奥」の南南西約1,000mに停泊していた戦艦「扶桑」は「陸奥爆沈ス。一二一五」と発信、以後「陸奥」に関する一切の発信は禁止された。また付近の航行は禁止され、死亡した乗員の家族には給料の送金を続けるなど、「陸奥」の爆沈は一般には秘匿され、国民は戦後になるまでこの事件を知らされなかった。1943年(昭和18年)は山本五十六連合艦隊司令長官が戦死、アッツ島玉砕など暗いニュースが連続しており、国民に親しまれた「陸奥」が戦わずして爆沈という最悪のニュースを内外に報道することができなかったという事情もある。もっとも連合艦隊各艦にはニュースが通達され、さらに休暇上陸後に国民から「陸奥が爆沈した」と教えられたと証言する戦艦「武蔵」乗組員もいる。呉でも「陸奥」爆沈の情報は確証を持って語られていたという。「陸奥」爆沈時の第一艦隊司令長官であった清水光美中将は責任をとらされる形で予備役に編入された。


<爆発の原因>

爆発事故直後に査問委員会が編成され、事故原因の調査が行われた。検討の結果、自然発火とは考えにくく、直前に「陸奥」で窃盗事件が頻発しており、その容疑者に対する査問が行われる寸前であったことから、人為的な爆発である可能性が高いとされる。1970年(昭和45年)9月13日発行の朝日新聞は四番砲塔内より犯人と推定される遺骨が発見されたと報じ、この説は一般にも知られるようになった。だが、真相は未だに明確になっていない。謎めいた「陸奥」の最期は、フィクションの題材にもなった。この他、爆発の原因はスパイの破壊工作、三式弾の自然発火による暴発、また、上記時人為的爆発の背景としては、乗員のいじめによる自殺や一下士官による放火などが挙げられている。
三式弾の自然発火は原因調査前に最も疑われた事故原因のひとつだったが、「陸奥」の隣に碇泊していた「扶桑」の艦長であった鶴岡信道大佐以下、目撃者は爆発直後に発生した爆発煙を、ニトログリセリンと綿火薬が主成分の主砲弾用九三式一号装薬によるものだったと述べ、原因調査の際に行われた目撃者に対する火薬煙の比較確認実験でも、同様の証言が残されている。事故後の調査実験でも、三式弾の劣化等による自然発火は発生しないことが判明した。
更にもうひとつの意見として大高勇治(第七駆逐隊司令部付通信兵)による爆雷誤爆説がある[38]。「陸奥」爆沈の約1年半前の1941年(昭和16年)12月30日、対潜水艦哨戒出撃準備中の駆逐艦「潮」は起爆点を水深25メートルにセットしたたまの爆雷1個を陸奥爆沈地点に落とした。その際は爆発せず、引き上げられもせず放置された。落とした事実は上級士官に報告されなかった。この付近は水深25メートル前後であり、「陸奥」移動時のスクリューの回転により何らかの波動が発生して爆雷が爆発したのが陸奥沈没の原因であると結論づけている。大高は人為説に対して、戦艦の弾薬庫管理は厳重であること、鍵は当直将校が首にかけていること、弾薬庫には不寝番衛兵がいることなどを指摘し、仮に陸奥の艦長が敵国のスパイであったとしても、火薬庫に侵入・放火することは不可能だとして否定的である。「長門」副砲手として「陸奥」の沈没を目撃した田代軍寿郎(海軍一等兵曹)も、弾火薬庫常備鍵を持った陸奥副直将校が鍵箱ごと遺体で回収されたこと、予備鍵は艦長室にあることを理由に挙げ、弾薬庫不審者侵入説を強く否定している

<お勧め動画>

戦艦「陸奥」、「伊勢」、「山城」




姉妹艦戦艦長門




Imperial Japan Navy Battleship "Nagato" color video



公開日: 2013/03/04
大日本帝国の戦艦長門のカラー映像。戦後、米軍に接収され原爆実験前とおもわれる映像が中心。
IJN battleship Nagato color video



<お勧めHP>
戦艦陸奥引揚解体写真集(貴重な写真がたくさん収納されています)
http://navgunschl2.sakura.ne.jp/photo/mutsu/mutsu.html

戦艦陸奥(陸奥について非常に分かり易くまとめられたHPです)
http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/ren-mutu.htm

カラー写真の引用HP(陸奥以外にも着色された軍艦がたくさん収納されています > 必見)
http://blog.livedoor.jp/irootoko_jr/archives/850162.html


南海地震の予知について [社会問題]

南海地震が3月にやってきますという記事がネット上で話題になっている事は知っていました。そのときは、GPSは地表面の現象だから地中深くで発生する地震にはあまり役に立たないだろうな、と考えていました。

ところが、3月14日の未明に大きな地震が四国西部地区で発生しました。 ショック!!
今後は村井さん(東大名誉教授)の発言には耳を傾けるようにしたいと思います。




<南海トラフ“誘発”は 愛媛で13年ぶりM6クラス地震>
  テレビ朝日系(ANN) 3月14日(金)17時55分配信
 14日未明に愛媛県でマグニチュード6.2を観測した地震は、列島の広い範囲で揺れを観測しました。外壁が崩れるなどの被害も相次ぎ、20人がけがをしました。.
最終更新:3月15日(土)12時25分

<愛媛震度5強>6県で21人負傷 山陽新幹線も影響
  毎日新聞 3月14日(金)19時15分配信
 14日午前2時6分ごろ、四国や中国九州にかけて強い地震があった。愛媛県西予市で震度5強を記録した。気象庁によると、震源は瀬戸内海西部の伊予灘で、震源の深さは約78キロ。地震の規模を示すマグニチュード(M)は6.2と推定。山口大分など6県で計21人が負傷した。気象庁は「南海トラフの大きな地震とは直接の関係はないと考えている」とした。
 この地震で、山陽新幹線は設備点検のため14日早朝から66本が遅れ、約2万7700人に影響が出た。JR九州でも特急9本を含む36本が運休し約5900人に影響が出た。



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