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岐阜城(稲葉山城)探訪 [歴史探訪]

2016年5月15日(日)岐阜市にある稲葉山城に登城しました。
岐阜城は斎藤道三や織田信長が居住した歴史的に有名なお城です。

城の種類/山城
所在地/岐阜県岐阜市天主閣18
築城年/建仁元年(1202)
施設/御殿、本丸、櫓、土塁、堀

岐阜城(ぎふじょう)は、岐阜県岐阜市(旧・美濃国井之口)の金華山(稲葉山)にあった日本の城(山城跡)。織田信長が、斎藤龍興から奪取した稲葉山城の縄張りを破却して、新たに造営したものが岐阜城である。城跡は岐阜城跡(ぎふじょうあと)として金華山と、その山塊の2,091,602.74平方メートルが国の史跡に指定されている。その範囲は、現在の国有林の範囲に符合する。
<出典:wikipedia>

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麓から眺めた岐阜城です。


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本来は足で歩いて登るべきでしょうが、今回はロープウェイを使用します。620円で山の上まで運んでいただけるとはありがたいことです。


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ロープウェイが出発してすぐに「信長公居館跡」を発掘している現場が見下ろせました。


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■斎藤道三以降の城主
斎藤道三:長井新左衛門尉の嫡男。長良川の戦いに敗れ戦死。享年63。
斎藤義龍:斎藤道三の嫡男。道三を破り、信長を何度も撃退したが、急死。享年35。
斎藤龍興:斎藤義龍の嫡男。※竹中重治らに城を奪われる。のち返還されるも織田信長によって再び落城。享年26。(落城2,3回目)
<※ 戦国時代を代表する軍師としても知られ、織田氏の家臣である羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の参謀として活躍し、黒田孝高(黒田官兵衛)とともに「両兵衛」「二兵衛」と称された。>
安藤守就:斎藤龍興の家臣。西美濃三人衆。半年間、稲葉山城を占拠した。本能寺の変で自害。享年80。
織田信長:斎藤道三の娘婿。京都本能寺で自害。享年49。
織田信忠:織田信長の嫡男。京都妙覚寺から二条新御所に移動し戦死。享年26。
斎藤利堯:斎藤道三の子。信忠家臣であり本能寺の変の際に岐阜城を掌握した。
織田信孝:織田信長の三男。賤ヶ岳の戦いの後、岐阜城を落とされ尾張知多郡内海で自害。享年26。(落城4回目)
池田元助:池田恒興の嫡男。小牧・長久手の戦いにおいて父子共に討死。享年26。
池田輝政:池田恒興の次男。後に姫路宰相百万石と評され、姫路城を修築した。姫路で死去。享年50。
豊臣秀勝:豊臣秀吉の姉(日秀尼)の子。総大将として朝鮮に出陣したが、巨済島にて病死。享年23。
織田秀信:織田信忠の嫡男。清洲会議での三法師。高野山を追放された年に死亡。享年26。(落城5回目)
<出典:wikipedia>

歴史好きにはたまらない役者ばかりです。 それにしてもこんな堅固な山城でも落城するのですね。それも、5回とは。 そして、城主の若死にが目立ちますね。斎藤龍興26歳、織田信忠26歳、織田信孝26歳、池田元助26歳、織田秀信26歳、それに豊臣秀勝に至っては23歳。 まむしと恐れられた斎藤道三の怨念がそうさせたのでしょうか?


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山頂部付近にある「切通し」

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ニノ門
写真の左手上段には、織田信長の美濃 斎藤氏が拠る岐阜城攻めでは秀吉が瓢箪を掲げた岩があります。現地の説明書きでは、秀吉が千成瓢箪を馬印に使用した発祥の地だそうです。


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斉藤氏三代(道三・義龍・龍興)

 斉藤道三(どうさん)が、灯油売り商人として、京都から美濃国へ下り、守護土岐頼芸の知遇を得て、美濃一国を征服したことは、NHKの大河ドラマ「国盗り物語」などで有名です。しかし、最近、発見された南近江の大名六角承禎書状から、道三の前半生は父の長井新左衛門尉のことであり、後半生が道三の事蹟ということがわかりました。

 道三は稲葉山城を要害化し、山の西麓に居館を建て、百曲道と七曲道に住人を集めて城下町をつくりました。 また、御園・岩倉・中川原に市場を設けて、商取り引きを盛んにしました。

 天文二十三年(一五五四)、道三は突然隠退して家督を子の新九朗利尚(義龍)に譲りましたが、やがて父子の対立が生じ、弘治二年(一五五六)の戦いで討死しました。義龍(よしたつ)は戦国大名として領国経営に力をそそぎましたが、道三死後、わずか六年で突然病死し、あとを幼い虎福丸(龍興)が継ぎました。

 しかし、斉藤氏の勢威は弱まり、織田信長の攻勢が盛んになる時に、永禄七年(一五六四)、家臣の竹中半兵衛重治らによって、稲葉山城が一時期占拠される事件がおきました。その後、竹中氏らは敗北し、稲葉山城は再び龍興(たつおき)の手に戻りましたが、この事件によって斉藤氏は一挙に衰退し、ついに永禄十年(一五六七)、稲葉山城は織田信長に攻略され、龍興は城を捨てて逃れました。


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復興天守(再建)
1956年(昭和31年)7月25日落成。鉄筋コンクリート建築3層4階建て。延べ面積461.77m²、棟高17.7m。天守の設計は加納城御三階櫓の図面や古文書を参考に城戸久名古屋工業大学名誉教授が設計、大日本土木が施工した。再建時の『岐阜城天守閣再建設計図』の複製が岐阜県図書館に所蔵されている。ただし、建てられた天守閣は設計された物とは異なる。
<出典:wikipedia>

<一般論として、関ヶ原(1600年)以前に作られたお城は松本城、熊本城、広島城、岡山城のように城壁は黒色でした。その後は、名古屋城、姫路城、彦根城などのように白壁に移行したといわれています。・・と考えると、岐阜城の復元は黒色で行うべきであったのではないでしょうか。そして、復興天守は安土桃山時代のお城のイメージとはかけ離れており、あまりに近代的であると感じます。>

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石垣は比較的小さな石を用いた野面積みです。想像ですが、築城の時、標高があまりにも高く巨石を持ち上げるのは大変だったからでしょう。そして、巨石で高石垣を築くのは城主の力を見せつけるための目的がありますが、麓から距離がありすぎで石垣が見えるわけではないのでこれでよかったのでしょう。


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ようやく天守入り口までやってきました。


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天守から見た北西方向の風景です


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天守から見た北方向の風景です。長良川の流れがよく見えます。


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天守から見た西方向の風景です


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天守から見た北東方向の風景です


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天守から見た南西方向の風景です


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登りはロープウェイを使って楽をしたので帰りは歩いて下山します。



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お城で大切な井戸がありました。
ここの山城は、標高が高く本来の地下水をくみ上げる方式がとれなかったようです。この井戸は雨水をためるのに使用したようです。このことが何度も落城したことの原因かもしれません。
熊本城では水の大切さが十分理解されていたようで、場内に100カ所以上の井戸があったようです。


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狭い道を降りていきます


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岩を削って道を作ったのでしょうが、大変であったと思われます。特に舗装というものはなかったでしょう。
そして何よりも大変だったのは、袴をはいた武士達でしょう。特に癖のある城主がこの城を統治していたときは呼び出しがあった際は・・・・・・・


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自然が作り出した断層が露出していました。


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途中1本90円の団子を食しました。
歌では団子三兄弟ですが、ここの団子は五つ子でした。


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こんな山道が延々と続きます。
結局ゆっくり歩いて一時間近くかかりました。

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城の麓に「織田信長公居館」跡がありました。早速見学です。
訪れたとき、和服を着たきれいな若い女性(たぶん近々に結婚するのでしょう)の撮影会が行われていました。天下統一を目指した織田信長の旧宅での写真は一生の良い記念になるでしょう。

http://www.gijodai.ac.jp/nobukyokan/


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かなり広大な居館であったようです


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石垣は下部を残してすべて破却してしまっています。
どこかに持って行って流用したのではないでしょうか。


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ここの部分の石垣は多少残っているようです。
奥に三重の塔の復元現場が見えます。

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織田信長の城 岐阜城  金華山




日本の城11「岐阜城」




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